「赤松晴政」の版間の差分

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[[享禄]]4年([[1531年]])、[[細川晴元]]と対立する[[管領]]・[[細川高国]]を擁した浦上村宗が[[摂津国]]へ侵攻すると、村宗たちの後詰めとして参戦したが、実は[[堺公方]]の[[足利義維]]へ密かに人質を送って裏切りを確約していた。6月4日、[[神呪寺]]に布陣していた晴政が晴元方に内応して高国・村宗軍を背後から攻撃。晴元方からも挟撃された高国・村宗軍は壊滅し、村宗を戦死させ、高国も自害へと追い込んだ([[大物崩れ]])。
 
これにより、ある程度は実権を回復したものの、村宗の子である[[浦上政宗]]や[[浦上宗景]]との対立はその後も続いた。さらにき、[[天文 (元号)|天文]]73年([[15381534]])8月には朝日山([[姫路市]])にて激戦を繰り広げている。さに、天文6年([[1537年]])12月に始まった、[[出雲国]]からの尼子詮久(後の[[尼子晴久]])による侵攻により、対立していた浦上兄弟西播磨の[[龍野城]]まで奪われ恭順す、晴政の領国は混乱し、一時[[別所氏宍粟市|宍粟]]の[[宇野村頼]]が寝返る。天文7年([[1538年]])7月には高砂城([[高砂市]])の梶原氏を頼るも、寝返た[[小寺則職 (戦国時代)|小寺則職]]・[[明石正風]]らの攻撃を受け、[[淡路国]]郡家の田村能登守のもとへ逃亡する。天文8年([[1538年]])4月8日、[[細川氏|阿波細川氏]]の援助を取り付けた晴政は、明石に上陸して[[三木枝吉城]]に逃れを攻略し。や、最後まで尼子勢に抵抗し別所氏もいた[[尼子三木城]]の[[別所氏]]も内じたためしているとの噂が流れ11月25日に[[堺]]の海会寺逃亡するこになる落ち延びた
 
天文9年([[1540年]])から翌年にかけての尼子氏の[[安芸国]]遠征失敗([[吉田郡山城の戦い]])によって、播磨から尼子氏が撤退。領国の危機は去ったとはいえ、赤松氏の権威失墜までは止まらなかった。なお、将軍・[[足利義晴]]より「晴」の字を賜り'''晴政'''(はるまさ)と改名したのはこの時期である。
 
天文21年([[1552年]])には尼子晴久が備前・美作守護職に任ぜられた事で、晴政は守護としての2国の権限を喪失する。残る播磨での主権も政宗浦上氏に奪われ続けておりるなか、永禄元年([[1558年]])8月には[[小寺宗に擁立される職]]が嫡子・[[赤松義祐|義祐]]とやむなく対抗を擁立するクーデタが起き、娘婿の[[赤松政秀]]の居城龍野城に逃れた。これにより赤松氏惣領家は分裂してしまい、守護大名赤松家は領主層から推戴される一地方権力へと凋落していったのである。その後は、政秀の庇護下で義祐のもと播磨北部や美作に勢力基盤を移し、[[毛利氏]]や在地領主([[嵯峨山氏]]政宗[[広戸氏]]・[[豊福氏]]など)ら連携して領国経営を行った晴政であったが、永禄8年([[1565年]])1月16日に死去した。
 
墓所は姫路市の[[松安寺]]跡に存在する。