「ナレースワン」の版間の差分

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[[ファイル:Naresuanbattlelephnt.jpg|200px|thumb|ノーンサーラーイの戦い([[1593年]])でビルマ王子ミンチット・スラと戦うナレースワン王、[[サムットプラーカーン県]]]]
[[ファイル:Kns006.jpg|right|thumb|200px|1600年、ビルマの都[[ペグー]]に入城するナレースワン王]]
[[1563年]]、父が知事を務めていたピッサヌロークが[[ミャンマー|ビルマ]]の[[バインナウングー王朝]]に攻められると、ナレースワンは人質としてビルマに連行された。[[1569年]]、タイがビルマの属国なると父が傀儡としてタイの王に擁立される。同年、父は娘[[スパンカンラヤー]]をビルマ王に嫁がせ、代わりにナレースワンを帰国させた。ビルマで軍事を学んだナレースワンはビルマからの独立を目指してタイ兵士を独特の武道で訓練し力強化を進めた。この武道がタイの国技ともいわれる時に[[古式ムエタイ|ムエタイ]]の原型が創始されたなったわれる。[[1574年]]タイは軍を起こ挙兵し、ビルマの[[シッタン川]]でナレースワンが敵軍の先鋒を銃殺するなどは優勢勝利展開したものの独立するには失敗している至らなかった。[[1581年]]、ビルマ王[[バインナウン]]が死にビルマが急速に衰退し始めるタイは再度兵を挙げ、ナレースワンは父王を扶けて再び兵を挙げ、[[1584年]]に独立を実現させ果たした。[[1590年]]、父王が死ぬと王位を継ぎ、ぐ。[[1594年]]からビルマに侵攻し[[1600年]]にはビルマの都ペグーを落としている。ナレースワンは武人として数々の戦いで自ら軍を指揮し、[[カンボジア]]との戦いでは、[[プラヤー・ラウェーク]]王を捕らえ斬首し、その血で足を洗うという[[インドシナ半島]]で行われていた戦勝儀式を行っている。[[1604年]]、ビルマのタイ系[[シャン族]]がビルマ王[[ナンタブレン]]が毒殺されたことによる混乱に乗じてビルマのタイ系[[シャン族]]がタイに恭順してきが、とから、彼らビルマ王は許さず兵を進保護するたる。ナレースワンはシャン族を保護するために兵を率いてアユタヤから北上したものの翌年、現在の[[チエンマイ県]]北部で病死した。
 
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