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== 生涯 ==
[[潮州市|潮州]]出身の[[華人]]で、賭博場から税を徴収する役人であった[[鄭鏞]]の子として生まれ、父から'''鄭信'''と名付けられた。幼い時にタイ族のプラヤー・チャックリー([[ラーマ1世]]とは別の人)という官吏の元に養子に出されとなり、養父からは「'''シン'''('''宝'''、[[潮州語]]で'''宝''')」と名づ付けられるた。5歳の時に寺に預けられ入って13歳まで勉学んだ後に励み、やがて[[アユタヤー王朝]]にで仕官した。その後も宮内の外国人の学者達に積極的に教えを請うなど、宮殿内でも学問に励んでいたという。21歳でタイ族の伝統に則って出家し、て24歳で再び還俗し、王の小姓となったる。それから[[ターク]]国の監察官に任命されたが、在任務中にターク国主知事が死んだぬと知事から自身が新たなターク国主となっ職に就いた。この時、ターク国主知事の称号に本名の「シン」が付けられ彼のて通用名「'''タークシン'''」となった。
アユタヤに[[ミャン泰緬戦争 (1765年-1767年)]]で[[ビルマー]]の[[コンバウン王朝]]の軍が侵入攻したとてきた際、タークシンは新たな国主の任務に就くため[[カンペーンペット]]の知事に就くため任地へ赴こうとしていたが、急遽アユタヤの防衛に加わった。しかし、アユタヤー王、[[エーカタット]]王が大砲の音にで鼓膜が破れるのを恐れて「大砲は朕の許可を得てから撃て」と言っ命じたにも関わらず、無断で砲撃したタークシンは無断で撃ったため罪にを問われ、執行猶予ることにはなったものの弱々しい王に嫌気がさしてり、[[ラヨーン]]にへ出奔したする。その地でタークシンはラヨーンで挙兵を挙げすると、反対勢力の[[チャンタブリー]]を制圧した後、潮州系の[[華人]]をかき集めてチャオプラヤー川を遡りアユタヤにへ向かった。しかしが、すでに[[アユタヤ王朝]]はすで滅亡し、ビルマ軍に廃墟になよってアユタヤの町も徹底的に破壊されていたため、再び下流に下り、[[1767年]]([[タイ仏歴]]2310年)、下流の[[トンブリー]]に王朝を建てた。これが[[トンブリー王朝]]である。
タークシンは文武両道の王で、アユタヤ朝滅亡後、敵対勢力にはする[[ピサヌローク]]国主、や[[ナコーンシータンマラート]]国主、[[ピマーイ]]国主、[[プラ]]・[[ファーン郡|ファーン]]などがいたが次々に討伐しの諸勢力を破り、北部さらに[[ランナー国王朝]]を属国とし服従させた。さらに、アユタヤ王朝時代の属国であった[[カンボジア]]、[[ラオス]]をも次々に回復しているた。即在位中15年間の多く大半を、戦争に費やさなければならなかっしたタークシン王の重要なを支えた将軍として活躍したのが'''チャオプラヤー・チャックリー'''(後の[[ラーマ1世]])である。一方文化の面でも業績を残しており、タークシンはアユタヤー王朝末期に散逸した文献の収集と整理にも力を入れ、再編集した。タークシンの編纂した『[[ラーマキエン]]』は今でも、多数あるラーマキエン版本の中でも最もよいものとされている。また、[[三島由紀夫]]の小説でも有名な『[[暁の寺]]』で知られる寺院[[ワット・アルンラーチャワラーラーム]]を修復し[[仏教]]も手厚く保護にも力を入れした。
しかし、タークシンは自分が中国系の血を引いていることを忌み嫌い、でアユタヤ王朝の王家の血を引いていないことに強いコンプレックスを抱いていた。それおり、次第によって晩年は精神錯乱をき来すようになったしたとされる。例えばある日タークシンは突如、「朕は[[阿羅漢]]の境地に達した」と言いだ出し、僧侶に自分を礼拝するよう命じたことがあった。、[[タイの仏教]]では僧侶が民間人がの阿羅漢に達しても、僧がその人にを礼拝することは罪とされ禁じているのでために数名の高僧が礼拝を断ったが、断。これに怒った僧タークシンは、彼らを捕えられて僧籍を剥奪された上、し鞭打ちの刑に処されした。このときの僧の慟哭はトンブリー中に響きわたったと言われている。この事件は国民衆に衝撃を与え、各地の勢力で反乱が再び反抗の兆しを見せ起こり始めた。また、鉱山の税務官が職権を乱用したことも民心の離反を招き反乱の原因となっていた。タークシン王は家来のプラヤー・サンに反乱を鎮圧するようにを命じたが、簒奪を狙ったプラヤー・サンは逆に却って反乱者を集めてトンブリーにを攻め入り、王を強制的に出家させて自らは摂政の位に就き、タークシンは出家を強いられた。王位もねらっていたが、そこのときカンボジア遠征に行っていた時、'''チャオプラヤー・マハーカサット・スック'''(上の段落のチャオプラヤー・チャックリー、もしくは[[ラーマ1世]])がトカンブリーにボジア遠征から戻ってきた。り、民衆はチャオプラヤー・マハーカサット・スックにタークシンの処刑支持もえて国権を求め掌握した。そして[[1782年]]([[タイ仏歴]]2325年)[[4月6日]]、タークシンはチャオプラヤー・マハーカサット・スックはタークシンのによって処刑を指令しされ、同日に王位に就き[[チャックトンブリー王朝]]を創設は滅亡した。
== 紙幣との関係 ==
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