「クネルスドルフの戦い」の版間の差分

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|casualties2=死傷 18,969、うち戦死6,000<ref>Christopher Clark: Preußen - Aufstieg und Niedergang 1600 - 1947, Phanteon Verlag, 1. Auflage, 2008, S. 244</ref>
|}}
'''クネルスドルフの戦い'''(ドイツ語:Schlacht bei Kunersdorf)は、[[七年戦争]]中の戦いで、[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]にとって最も壊滅的な敗北である。[[1759年]]の8月12日、 [[フランクフルト・アン・デア・オーダー]]の東に位置する[[クーネルスドルフ]]において、4万9000の[[プロイセン王国|プロイセン]]軍が7万1000の[[ロシア帝国|ロシア]][[ハプスブルク帝国|オーストリア]]の連合軍を前に敗北した。
 
== 背景 ==
{{仮リンク|カール・ハインリヒ・フォン・ヴェーデル|de|Carl Heinrich von Wedel}}[[少将]]指揮下の軍団が[[カイの戦い]]で敗北した後、[[1759年]]8月に[[ハプスブルク帝国|オーストリア]]の一軍が[[プロイセン王国]]の中核地帯、[[ベルリン]]=ブランデンブルクを脅かすべくフランクフルト・アン・デア・オーダーで[[ロシア帝国|ロシア]]軍と合流を果たした。この連合軍は[[エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン]][[少将]]と{{仮リンク|ピョートル・サルティコフ|label=ピョートル・セミョーノヴィチ・サルティコフ|en|Pyotr Saltykov}}[[元帥]]に率いられ、7万1000名(うち{{仮リンク|ロシア帝国軍|label=ロシア軍|en|Imperial Russian Army}}は4万1000名)を数えた。[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]はヴェーデルの[[部隊]]を合流させると、指揮下の約4万9000名をもって、[[オーデル川]]の右岸にある連合軍の、防備を固めた陣地に向かい決戦を企図する。
[[カール・ハインリヒ・フォン・ヴェーデル]]{{enlink|Carl Heinrich von Wedel||de}}[[少将]]指揮下の軍団が[[カイの戦い]]{{enlink|Battle of Kay||}}で敗北した後、[[1759年]]8月に
[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]の一軍が[[プロイセン王国]]の中核地帯、[[ベルリン]]=ブランデンブルクを脅かすべくフランクフルト・アン・デア・オーダーで[[ロシア帝国|ロシア]]軍と合流を果たした。
この連合軍は[[エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン]][[少将]]と[[ピョートル・サルティコフ|ピョートル・セミョーノヴィチ・サルティコフ]]{{enlink|Pyotr Saltykov||}}[[元帥]]に率いられ、7万1000名(うち[[ロシア帝国軍|ロシア軍]]{{enlink|Imperial Russian Army||}}は4万1000名)を数えた。
[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]はヴェーデルの[[部隊]]を合流させると、指揮下の約4万9000名をもって、[[オーデル川]]の右岸にある連合軍の、防備を固めた陣地に向かい決戦を企図する。
 
== 戦闘 ==
戦闘はプロイセン軍によるロシア軍陣地への攻撃から始まった。この攻撃は成功し、もしフリードリヒ大王が弟[[ハインリヒ・フォン・プロイセン (1726-1802)|ハインリヒ王子]]の助言を聞いて前進を止めておけば、クーネルスドルフの戦いを制したのはプロイセン軍のはずだった。しかし{{仮リンク|斜行戦術|en|Oblique order}}を適用するための迂回行動は失敗し、プロイセン軍の攻撃は連合軍の戦列に阻止された。だがフリードリヒ大王は当初の成功を活かせると信じ、戦闘の続行を決意した。プロイセン軍の攻撃が弱まっている間に、遥か遠方にいたオーストリア軍騎兵も戦場に到着した。しかしプロイセン軍は再編し、連合軍に対して圧力を加え続けた。正午過ぎには戦闘も最高潮に達し、ロシア軍中央の[[砲兵]]陣地に対して[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイトリッツ|ザイトリッツ]]率いるプロイセン[[騎兵]]の大規模な突撃が行われた。この突撃は失敗し、プロイセン騎兵は著しく消耗した上に混乱した退却を強いられた。ザイトリッツ自身も酷い重傷を負った。連合軍の騎兵部隊(オーストリア騎兵を主体とし、ロシアの[[重騎兵]]、[[カルムイク人|カルムイク]]騎兵、[[クロアチア]]騎兵も含まれる)はこの好機を逃さず、プロイセン軍左翼に対する攻撃を開始した。それは決定的な効果を挙げ、疲弊したプロイセン軍各連隊の無秩序な退却に繋がる。フリードリヒ大王が戦場から退いて来た時には、周囲に3,000名が残るのみであった。
戦闘はプロイセン軍によるロシア軍陣地への攻撃から始まった。この攻撃は成功し、もしフリードリヒ大王が弟[[ハインリヒ・フォン・プロイセン (1726-1802)|ハインリヒ公]]の助言を聞いて前進を止めておけば、クーネルスドルフの戦いを制したのはプロイセン軍の筈だった。
[[ファイル:FedericoII Kunersforf1759.jpg|thumb|left|クネルスドルフの戦いにおけるフリードリヒ2世、[[{{仮リンク|リヒャルト・クネーテル]] {{enlink|de|Richard Knötel||de}}作の石版画。後代の作品。]]
しかし[[斜行戦術]]{{enlink|Oblique order||}}を適用するための迂回行動は失敗し、プロイセン軍の攻撃は連合軍の戦列に阻止された。だが[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]は当初の成功を活かせると信じ、戦闘の続行を決意した。プロイセン軍の攻撃が弱まっている間に、遥か遠方に居た[[ハプスブルク君主国|オーストリア]]軍騎兵も戦場に到着した。しかしプロイセン軍は再編し、連合軍に対して圧力を加え続けた。
[[ファイル:HGM L Allemand Gideon von Laudon Kunersdorf.jpg|thumb|rightleft|クネルスドルフの戦場で馬に乗るラウドン。 ([[ウィーン軍事史博物館]]所蔵の、後代の作品。]]
正午過ぎには戦闘も最高潮に達し、ロシア軍中央の[[砲兵]]陣地に対して[[フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイトリッツ|ザイトリッツ]]率いるプロイセン[[騎兵]]の大規模な突撃が行われた。この突撃は失敗し、プロイセン騎兵は著しく消耗した上に混乱した退却を強いられた。ザイトリッツ自身も酷い重傷を負った。連合軍の騎兵部隊(オーストリア騎兵を主体とし、ロシアの[[重騎兵]]、[[カルムイク人|カルムイク]]騎兵、クロアチア騎兵も含まれる)はこの好機を逃さず、プロイセン軍左翼に対する攻撃を開始した。
それは決定的な効果を挙げ、疲弊したプロイセン軍各連隊の無秩序な退却に繋がる。フリードリヒ大王が戦場から退いて来た時には、周囲に3,000名が残るのみであった。
 
[[ファイル:FedericoII Kunersforf1759.jpg|thumb|left|クネルスドルフの戦いにおけるフリードリヒ2世、[[リヒャルト・クネーテル]] {{enlink|Richard Knötel||de}}作の石版画。後代の作品。]]
[[ファイル:HGM L Allemand Gideon von Laudon Kunersdorf.jpg|thumb|right|クネルスドルフの戦場で馬に乗るラウドン。 ([[ウィーン軍事史博物館]]所蔵の、後代の作品。)]]
 
== 余波 ==
この敗北に直面したフリードリヒ大王は失意に陥り、[[{{仮リンク|フリードリヒ・アウグスト・フォン・フィンク|label=フィンク]]{{enlink|de|Friedrich August von Finck||}}[[中将]]に軍の指揮権を委ね、ハインリヒ王子を総司令官に任じた。戦闘に敗れた夜、フリードリヒ大王はベルリンに向けてこのような手紙を送っている
戦闘に敗れた夜、フリードリヒ大王はベルリンに向けてこの様な手紙を送っている:
{{quotation|
今朝の11時、私は敵軍に攻撃を仕掛けた。…(中略)…私の兵士たちは驚くべき働きをして見せたが、その代償はあまりにも大きかった。我が兵は混乱しきっていた。私は3度も彼らを再編した。最後には私は捕縛の危険に晒され、逃走するほかなかった。銃弾が私の上着を掠め、私の2頭の馬は射殺されてしまった。私が生き残ったことは不運でしか無い…(中略)…我々の敗北は甚大である。48,000名のうち留まったのはたった3000名でしかない。こうして私が手紙を書いている間にも、皆は次々に逃げて行く。私は既にこの陸軍の司令官ではない。ベルリンの皆の安全について考えるのは良い活動だ…(中略)…私が死んで行くのは悲惨な失態だ。戦いの結果は戦闘そのものよりもさらに悪くなるだろう。私にこれ以上の手段はなく、そして正直に言って、全ては失われたのだと思う。私は生きて祖国の滅亡を見たくはない。さようなら、永遠に!
}}
4日後、連合軍が無為に時を過ごしていることが明らかになり、1万9000の敗残兵が[[{{仮リンク|ライトヴァイン]]{{enlink|en|Reitwein||}}にある自身の司令部に復帰して来ると、フリードリヒ大王はれまで何の結果も生まなかった上記の施策を撤回する。
 
オーストリア=ロシア連合軍は1万5000の損害を受けたものの勝利した後、ベルリンへの道は開かれていた。しかし双方の不和は、勝利の戦略的な利用を許さなかった。弟ハインリヒてた1759年9月1日の手紙で、フリードリヒ大王は連合軍の[[ザクセン選帝侯領|ザクセン]]方面を目指した、驚くべき撤退について書いている。
四日後、連合軍が無為に時を過ごしている事が明らかになり、1万9000の敗残兵が[[ライトヴァイン]]{{enlink|Reitwein||}}にある自身の司令部に復帰して来ると、フリードリヒ大王はこれまで何の結果も生まなかった上記の施策を撤回する。
 
オーストリア=ロシア連合軍は1万5000の損害を受けたものの勝利した後、ベルリンへの道は開かれていた。しかし双方の不和は、勝利の戦略的な利用を許さなかった。弟のハインリヒ公に充てた1759年9月1日の手紙で、フリードリヒ大王は連合軍の[[ザクセン]]方面を目指した、驚くべき
撤退について書いている。
 
{{quotation|
私は君に、[[ブランデンブルクの奇跡|ブランデンブルク家の奇跡]]を報告します。}}
}}
 
その間に、フリードリヒ大王は3万3000の兵力を集めるとフュルステンヴァルデで防衛線を敷いた。これによって七年戦争におけるプロイセン軍最大の敗北も、戦争の経過に影響を与えることはなかった。
 
== 余談 ==
フリードリヒ大王は戦いの間に2回、乗馬を射殺された。その際、敵弾が煙草入れに当たって跳ね返り、後代の語り草となる<ref>Friedrich Benninghofen, Helmut Börsch-Supan, Iselin Gundermann: ''Friedrich der Große. Ausstellung des Geheimen Staatsarchivs Preußischer Kulturbesitz anläßlich des 200. Todestages König Friedrichs II. von Preußen'', Berlin 1986, Kat. Nr. IV, 52f, Abbildung S. 206</ref>。彼は単身で小さな丘の上に立ち、自身の剣を地面に突き刺して、自分を包囲する敵兵に対して徹底抗戦するか、あるいは死ぬことを覚悟していた。この時、{{仮リンク|騎兵大尉|de|Rittmeister}}[[ヨアヒム・ベルンハルト・フォン・プリットヴィッツ]]の大胆な行動がなければ、王は捕縛の危機を免れないところであった。戦没者の中には{{仮リンク|ゲオルク・ルートヴィヒ・フォン・プットカーマー|de|Georg Ludwig von Puttkamer}}騎兵[[大将]]や詩人の{{仮リンク|エーヴァルト・クリスティアン・フォン・クライスト|en|Ewald Christian von Kleist}}[[少佐]]が含まれている
彼は単身で小さな丘の上に立ち、自身の剣を地面に突き刺して、自分を包囲する敵兵に対して徹底抗戦するか、或いは死ぬ事を覚悟していた。この時、騎兵[[大尉]]{{enlink|Rittmeister||de}}、[[ヨアヒム・ベルンハルト・フォン・プリットヴィッツ]]{{enlink|Joachim Bernhard von Prittwitz||de}}の大胆な行動がなければ、王は捕縛の危機を免れないところであった。
戦没者の中には[[ゲオルク・ルートヴィヒ・フォン・プットカーマー]]{{enlink|Georg Ludwig von Puttkamer||de}}騎兵[[大将]]や詩人の[[エーヴァルト・クリスティアン・フォン・クライスト]][[少佐]]{{enlink|Ewald Christian von Kleist||}}が含まれている。
 
== 個別の典拠 ==
<references/>
 
 
== 英語版の出典 ==
 
* ''Kungliga artilleriet: Det ridande artilleriet'' (1987) editor: Jonas Hedberg (英語の要約) ISBN 91-85266-39-6
*Die Deutschen Folgen 6- Friedrich II und die Kaiserin, ZDF 2009
 
== ドイツ語版の出典 ==
 
* Johannes Burkhardt: ''Vom Debakel zum Mirakel. Zur friedensgeschichtlichen Einordnung des Siebenjährigen Krieges'', in: Menschen und Strukturen in der Geschichte Alteuropas. Festschrift für Johannes Kunisch zur Vollendung seines 65. Lebensjahres, dargebracht von Schülern, Freunden und Kollegen, hg.v. Helmut Neuhaus / Barbara Stollberg-Rilinger (Historische Forschungen, Bd. 73), Duncker & Humblot, Berlin 2002, S. 299-318
* Großer Generalstab, Kriegsgeschichtliche Abteilung II. (Hrsg.): ''Die Kriege Friedrichs des Großen''. Dritter Teil: ''Der [[Siebenjähriger Krieg|Siebenjährige Krieg]] 1756-1763''. Band 10: ''Kunersdorf''. Mittler, Berlin 1912.
* Johann Ludwig Kriele: ''Ausführliche und zuverlässige historisch-militaerische Beschreibung der Schlacht von Kunersdorf und Frankfurt am 12. Aug. 1759. Mit beigefuegtem genauen Situations-Plane nebst verschiedenen Nachrichten der Schicksale Frankfurts und der umliegenden Gegend in damaliger Zeit''. Maurer, Berlin 1801, (Auch Nachdruck: Rieger, Karwe bei Neuruppin 2003).
* Johannes Kunisch: ''Das Mirakel des Hauses Brandenburg. Studien zum Verhältnis von Kabinettspolitik und Kriegführung im Zeitalter des Siebenjährigen Krieges'', R. Oldenbourg Verlag, München / Wien 1978 (154 Seiten)
[[Category:ロシア帝国の戦闘]]
[[Category:プロイセンの戦闘]]
[[Category:オーハプトリアブルク帝国の戦闘]]
[[Category:1759年のオーストリア]]
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