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|生年月日={{生年月日と年齢|1883|1|23|死去}}
|生誕地={{JPN}}、[[茨城県]][[西茨城郡]][[笠間市|笠間町]]
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'''海老沢 亮'''(えびさわ あきら, [[1883年]][[1月23日]] - [[1959年]][[1月6日]]) は[[日本組合基督教会]]の[[牧師]]であり、戦前は[[日本基督教連盟]]総主事として神の国運動を推し進め、戦後は[[日本基督教協議会]](NCC) の初代総主事として超教派の活動を行った。
 
== 生涯 ==
=== 初期 ===
[[水戸藩]]士海老沢知成の3男として、[[茨城県]][[西茨城郡]][[笠間市|笠間町]]に生まれる。[[立志学館]]を卒業した後、[[札幌農学校]]土木工学科で学ぶ。農学校在学中に、婦人宣教師の[[A・M・ドーデ―]]の英語教室で[[キリスト教]]に触れて, [[1900年]](明治33年) [[田中兎毛]]牧師から[[洗礼]]を受ける。
 
[[1902年]] (明治35年) に農学校を卒業後、[[日本鉄道会社]]に入社し、鉄道技手に任命される. [[1904年]](明治37年) [[日露戦争]]が始まると[[陸軍]][[少尉]]として、[[歩兵第25連隊]]に加わり、[[旅順]]に出征するが帰隊命令を受けて[[旅順攻囲戦]]には参加していない。所属部隊は旅順攻囲作戦に参加し[[203高地]]で全滅する。
 
=== 日本組合基督教会の牧師時代 ===
日露戦争後、[[同志社英学校|同志社神学校]](1904年創立) に入学する。在学中に[[今出川教会]]の設立に協力し、尼崎教会の伝道師を兼任する。卒業後、[[日本組合基督教会]]の[[按手礼]]を受け牧師になり、大阪梅田、札幌北光、京都などの教会を歴任する。宗教教育の必要性を訴えて、[[日本宗教教育教会]]を創立する。[[日本日曜学校協会]]の理事も務める。
 
=== 日本基督教連盟 - 神の国運動 ===
教派協調の必要を訴えて, [[1928年]](昭和3年) から[[日本基督教連盟]]総主事になる. 6月14日から17日まで日本基督教連盟、全国基督教協議会が開かれて、全国協同伝道の実施を定める。<ref>『日本キリスト教史年表』61頁</ref>
 
[[ジョン・モット|J・R・モット]]の働きかけを受け, [[1929年]](昭和4年) 4月12日には日本基督教連盟の全国基督教協議会と[[賀川豊彦]]の提案により、[[神の国運動]]を提唱される。海老沢は運動の中央幹事を兼任し、賀川豊彦と共に全国的な伝道を展開する。<ref>『日本キリスト教宣教史』中村敏, 227-228頁</ref>
 
[[1939年]](昭和14年) には自宅を開放して[[江古田教会]]を創設し、日本基督教連盟総主事を退く。
 
=== 日本基督教団 ===
[[1941年]](昭和16年) に[[日本基督教団]]成立時は、出版局長と東亜局長を兼任する。北支教会を訪問中に終戦を迎え、侵攻してきた[[ソ連]]兵に抑留される。
 
=== NCC ===
[[1946年]](昭和21年) に日本に引き揚げる. [[1948年]](昭和23年) には日本基督教協議会初代総主事に就任し、[[1956年]](昭和29年) まで務める。
 
[[1959年]](昭和34年) には[[宣教百年記念運動]]幹事としても活躍するが、健康上の理由で辞任し、『日本キリスト教百年史』を執筆中に病状が悪化して死去する。
 
== 著作 ==
* 『宗教教育の心理学的基礎』(1932)
* 『宗教教育教授法要領』(1933)
* 『宗教教育の諸相』(1936)
* ベーツ著、海老沢訳『信教の自由に関する研究』(1949)
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 園部不二夫『図説 キリスト教史』創元社, 1973年
* 海老沢宣道「海老沢亮」『日本キリスト教歴史大事典』[[教文館]], 1988年
* 『日本キリスト教史年表』教文館, 1992年
* [[中村敏]]『日本キリスト教宣教史』いのちのことば社, 2009年
 
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