「ティトゥス・メネニウス・ラナトゥス (紀元前477年の執政官)」の版間の差分

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[[紀元前476年]]、ラナトゥスの執政官任期が完了して退官すると、[[護民官]]クィントゥス・コンシディウスとティトゥス・ゲヌキウスが、前年の軍事作戦の不手際、特にファビウス氏族を壊滅させてしまったことに対して告訴した。しかしながら、[[ティトゥス・リウィウス]]によれば、実際の理由はラナトゥスが紀元前486年に執政官[[スプリウス・カッシウス・ウェケッリヌス]]が提案して以来[[プレブス]](平民)が求めていた公有地分配法に対して(ウェケッリヌスは翌年死刑となっている)、ラナトゥスが反対であったためとしている。元老院は、数年前の[[グナエウス・マルキウス・コリオラヌス|コリオラヌス]]のときと同様にラナトゥスを擁護し、また彼の父が紀元前494年の聖山事件(プレブスの離反)の解決に大きな役割を果たしていたたことも、彼に有利に作用した<ref name=Livy-2.52>[[ティトゥス・リウィウス|リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』、[http://data.perseus.org/citations/urn:cts:latinLit:phi0914.phi0012.perseus-eng1:52 ii. 52].</ref>。
 
リウィウスによれば、ラナトゥスは死刑も追放刑もまぬがれ、罰金2000[[アス (青銅貨)|アス]]が言い渡された。しかし、この屈辱に耐えることができず、ラナトゥスはまもなく病を得て死亡したとする<ref name=Livy-2.52/>(ディオニュシオスによれば、食を断って自決したとしている<ref>『ローマ古代誌』、[http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Dionysius_of_Halicarnassus/9B*.html ix. 27].</ref>)。しかし、[[カッシウス・ディオ]]はラナトゥスは死刑となったとしている(執政官のことを「lender」と呼んでいるので、非常に古い資料を基にしていると思われる)<ref>[[カッシウス・ディオ]]『ローマ史』、v. 21.</ref>。
 
==脚注==