「三淵晴員」の版間の差分

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子の[[細川幽斎|細川藤孝]](幽斎)は兄・[[細川元常]]の養子となり、近世[[細川氏|細川家]]の祖となった。藤孝の生母は後妻の智慶院([[清原宣賢]]の娘)で、彼女は足利義晴から下げ渡され晴員の妻となったため、一説には藤孝は義晴の落胤であるという。
 
なお、『[[系図纂要]]』によると、三淵氏は[[三淵持清|持清]]<ref>[[足利義持]]の[[庶子]]とされるが、下記外部リンクの系図など一部では、[[足利義満|義満]]の庶子で、義持の弟とする説もある。いずれにせよ「持」の字は義持から偏諱を賜ったものである。</ref>-[[三淵晴重|晴重]]-[[三淵晴政|晴政]]-[[三淵晴貞|晴貞]]-[[三淵晴恒|晴恒]]と4代続けて「晴」の字が名前に使われており<ref>系図は[http://www.geocities.jp/okugesan_com/shiryo5-3.html こちら](外部リンク)を参照。</ref>、「晴」の字は10歳以上若い足利義晴([[1521年]][[元服]])からの偏[[諱]](1字)というより養子先の三淵氏の[[通字]]と考えられる。一方、三淵氏については、『[[伺事記録]]』[[延徳]]2年([[1490年]])9月23日条に三淵氏の当主とみられる「三淵伊賀入道正蓮」が[[播磨国]][[印南郡]]の所領を安堵された記録に残り、また晴員の姉とされる[[清光院]]が播磨国で成長した義晴の養育係であったとされることから、三淵氏は義晴との関わりが深く、彼の庇護と将軍擁立の功労によって急速に地位を高めた幕臣とする見方もある。また、晴員と同時代にあたる大永から天文期に、晴員とは明らかに別人の「三淵孫三郎」という人物<ref>『大舘常興日記』天文10年12月3日条他</ref>が三淵氏の当主であった形跡であり、義晴の上洛後も播磨に残って赤松氏との[[取次 (歴史学)|取次]]を務めている<ref>『披露事記録』天文8年閏6月7日条</ref>(なお、現存の三淵氏の系図からは孫三郎の存在は確認できない)。[[設楽薫]]は晴員の和泉細川家出身説を疑問視し(同家との縁戚関係は否定しない)、清光院・晴員姉弟が実兄である三淵孫三郎の代わりに晴員の上洛に供奉・近侍したとしている<ref>設楽薫「将軍足利義晴の嗣立と大館常興の登場」(初出:『日本歴史』631号(2000年))/所収:木下昌規 編『シリーズ・室町幕府の研究 第三巻 足利義晴』(戒光祥出版、2017年)ISBN 978-4-86403-162-2 P162-164(2017年)</ref>。
 
ただし息子の藤英・藤孝は義輝(初名は義藤)から、藤英の息子の[[三淵秋豪|秋豪]]・昭貞・昭知・昭長は義昭(初名は義秋)から偏諱を受けている。