「清水寺」の版間の差分

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[[宝亀]]9年([[778年]])、大和国[[興福寺]]の僧で[[子嶋寺|子島寺]]<ref>奈良県[[高市郡]][[高取町]]に現存。</ref> で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、[[夢]]のお告げで北へ向かい、山城国[[愛宕郡]]八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残して、去っていった。行叡は[[観音菩薩|観音]]の[[化身]]であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。
 
その2年後の宝亀11年([[780年]])、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ[[坂上田村麻呂]]([[758年]] - [[811年]])は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子ちんこの病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となり、東国の[[蝦夷]]平定を命じられた田村麻呂は、自身が建立した清水寺に平定参拝をしたという。その後、若武者と老僧(観音の使者である[[毘沙門天]]と[[地蔵菩薩]]の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。[[延暦]]17年([[798年]])、田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。<ref>(横山、2008)、pp.17 - 20</ref>
 
=== 平安時代以[[]] ===
[[延暦]]24年([[805年]])には[[太政官符]]により[[坂上田村麻呂]]が寺地を賜り、[[弘仁]]元年([[810年]])には[[嵯峨天皇]]の勅許を得て公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされる。『[[枕草子]]』は「さわがしきもの」の例として清水観音の[[縁日]]を挙げ、『[[源氏物語]]』「[[夕顔 (源氏物語)|夕顔]]」の巻や『[[今昔物語集]]』にも清水観音への言及があるなど、平安時代中期には観音霊場として著名であったことがわかる。<ref>(横山、2008)、pp.20, 38</ref>