「ロバート・ライアン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
35行目:
== 生涯 ==
[[イリノイ州]][[シカゴ]]に生まれ、父親は建築会社の重役だった。アカデミー・ダートマス・カレッジではスポーツ選手として活躍、特に[[ボクシング]]では4年間カレッジ・ヘビー級チャンピオンだった。卒業後は[[カウボーイ]]、水夫、モデル、セールスマン、借金の取り立て屋など職を転々とし、その後はハリウッド・マックス・ラインハルト・シアトリカル・ワークショップで演技を学び、[[1939年]]に舞台デビュー。翌年、端役として映画デビュー、ブロードウェイで経験を重ね、[[1942年]]に[[RKO]]と契約した。[[1949年]]に[[ロバート・ワイズ]]監督の『[[罠 (映画)|罠]]』で主人公のボクサーを演じる。
 
前述のは[[クエンティン・タランティーノ]]が大ファンであり、特に[[パルプ・フィクション]]の[[ブルース・ウィリス]]演じる八百長試合を拒否するボクサーのエピソードに絶大な影響を与えた
 
日本ロケの[[サミュエル・フラー]]監督の[[東京暗黒街 竹の家]]では日本人俳優の[[山口淑子]]と[[早川雪州]]と共演した。
 
私生活では[[赤狩り]]に真っ向から反対するなど[[リベラリスト]]であった。[[1962年]]に超大作『[[史上最大の作戦]]』にて政治的にタカ派であった[[ジョン・ウェイン]]と共演した際、スタッフは政治の話を持ち出さないように、かなり気を遣ったというが、本人たちはさほど気まずい関係では無かったという。