「藤白鈴木氏」の版間の差分

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『稲毛郷土史』によると、[[前九年の役]]・[[後三年の役]]に一族の鈴木重宗らが参戦し、拠点を[[武蔵国]][[比企郡]]岩殿山に置いたとされ、その後軍功として麻生の地を与えられたとされる。
 
鈴木重光([[従六位上]]、[[右衛門少尉]])は[[白河天皇|白河法皇]]行宮に供奉、[[天永]]3年([[1112年]])の2月に61歳で没。鈴木重元([[左近将監|左近丞]])は[[保延]]6年([[1140年]])に68歳で没し、法名は浄円であった。
 
[[鈴木重邦]](刑部[[左衛門尉]])は[[源為義]]の家臣として武功を挙げたとされ、湯浅左近大夫・[[藤原宗永]]の娘を妻として[[鈴木重倫]]を生んだ。重倫は[[平治の乱]]で[[源義朝]]方の武将として戦死した。また、源為義の十男・[[源行家]]の母は熊野新宮禰宜の鈴木重忠の娘とする伝承もある。