「白川伯王家」の版間の差分

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{{日本の氏族
|家名= 白川家<br />(1962年(昭和37年)断絶)
|家紋= UnknownKakitsubata Bishi inverted.jpgpng
|家紋名称= 対い杜若菱<ref>[[文久]]3年([[1863年]])版『[[雲上明覧]]』による。</ref>
|家紋名称= 杜若?梅?|
|本姓= [[源氏#花山源氏|花山源氏]][[嫡流]]
|家祖= [[源顕康]]
|種別= [[公家]]([[半家 (公家)|半家]])<br/>[[華族]]([[子爵]])
|出身地= [[山城国]]
|根拠地= [[山城国]]<br/>[[東京都]]
|人物=
|支流= [[品川氏#品川氏(花山源氏)|品川氏]]([[武家]])
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延信王は、[[万寿]]2年([[1025年]])に源姓を賜り臣籍降下して、[[寛徳]]3年([[1046年]])に神祇伯に任ぜられた。なお、当時の呼称は「源」または「王」であり、その後の時代に、「白川家」や「伯家」「白川王家」と呼ばれるようになる。延信王以後、[[康資王]]、[[白川顕康王|顕康王]]、[[白川顕広王|顕広王]]と白川家の人物が神祇伯に補任されているが<ref>ただし顕康王に関しては確証がないとの見方がある。</ref>、この時期はまだ神祇伯は世襲ではなく、王氏、源氏及び[[大中臣氏]]が補任されるものと認識されており、事実、先の四名の間に大中臣氏が補任されている。
 
顕広王は本来は[[源氏]]であり、神祇伯就任とともに[[王氏]]に復し、退任後に源氏に戻る最初の例となっており<ref>ただし顕広王は神祇伯就任以前から王氏であった可能性も指摘されている。</ref>、以下に示す経過により、顕広王の王氏復帰をもって白川家の成立とみなすことが多い<ref>13世紀初頭の資宗王によって成立したという見解もある。</ref>。
 
顕広王の王氏復帰の背景には、神祇、すなわち[[神]]を祀るという、[[朝廷]]にとって最も重要な行為を行う神祇官の長官である「神祇伯」という職務の重要性と、源氏という最も高貴な血筋、及び顕広王の室で[[白川仲資王|仲資王]]の母が[[大中臣氏]]である上に、顕康王が有力な[[村上源氏]]の[[源顕房]]の[[猶子]]となっているなどの諸般の事情があったと考えられている。顕広王の子である仲資王(源仲資)が顕広王の後を継いで神祇伯となり、仲資王の退任後その子の[[白川業資王|業資王]](源業資)が神祇伯に任ぜられ、その後業資王が急死して弟の[[白川資宗王|資宗王]](源資宗)が神祇伯に任ぜられるために源氏から王氏に復し、これらが先例となり、以後、白川家による神祇伯の世襲化と神祇伯就任による王氏復帰が行われるようになったのである。
 
なお「白川」の呼称は[[13世紀]]中期以降、[[白川資邦王|資邦王]]の代から見られるようになる<ref>国史大辞典編集委員会編『国史大辞典第11巻』([[吉川弘文館]]、[[1983年]][[昭和]]59年))617頁参照。</ref>。
 
=== 吉田家との地位逆転 ===
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=== 王号返上と家系断絶 ===
[[明治|明治時代]]になると王号を返上し、白川家の当主の[[白川資訓|資訓]]は[[子爵]]に叙せられた。資訓の後を継いだ[[白川資長|資長]]には実子がなく、[[伯爵]][[上野正雄]]([[北白川宮能久親王]]の[[庶子]])の男子の[[上野久雄|久雄]]を[[養子縁組|養子]]に迎えたが、後にこの養子縁組は解消となり、白川家は断絶となる<ref>[[霞会館|霞会館華族家系大成編輯委員会]]編『平成新修旧華族家系大成 上巻』([[霞会館]][[1996年]][[平成]]9年)) 763頁参照。</ref>。
 
== 「神祇伯家学則」にある神道の大要 ==