「第二次モロッコ事件」の版間の差分

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[[Image:Paul Cambon 01.jpg|thumb|right|140px|仏大使カンボン]]
[[Image:Ed Grey.jpg|thumb|right|140px|英外相エドワード・グレイ]]
1911年、[[ベルベル人]]が大規模な反乱を起こした。同年4月、フランスは鎮圧のためモロッコに出兵。これに対してドイツは、同地に在住する自国民の生命・財産の保護を口実として、[[7月1日]]、にわかに[[イルティス級砲艦]]{{仮リンク|パンター (砲艦)|en|SMS Panther|label=パンター}} <ref>「パンテール」と表記した文献もある。ドイツ語で[[ヒョウ|豹]]の意味。</ref>を[[アガディール]] (Agadir) に派した。実際にはアガディールにはドイツ人は居住しておらず、このためだけに近隣のドイツ人を呼び寄せたという。
 
独仏関係は再び緊張した。[[7月3日]]、駐英フランス大使[[:en:Paul Cambon|カンボン]]は[[イギリス]]外相[[:en:Edward Grey, 1st Viscount Grey of Fallodon|グレイ]]に対し、アガディールに共同で軍艦を派遣するよう強く要求した。これを受けてグレイは、翌4日に閣議を開催する方針を決定。一方、[[ドイツの首相|ドイツ首相]][[テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク|ベートマン・ホルヴェーク]]は駐英ドイツ大使メッテルニヒに対し、もしイギリスが強硬措置に出た場合、「パンター号の派遣は、フランスとスペインのアルヘシラス議定書違反に伴う経過措置に過ぎない」と弁明するよう命じた。しかし独仏関係は強い敵対状態になり、両国の全面衝突は避けられないかとも思われ、{{仮リンク|ベルリン証券取引所|en|Berliner Börse}}でパニックが起こったほどである。
 
== 妥結 ==
イギリスは積極的にフランスを支持した。[[7月18日]]、イギリスとフランスは軍事協定を締結。[[7月21日]]には、イギリス蔵相[[デビッド・ロイド・ジョージ|ロイド・ジョージ]]が対独強硬演説を行い公然とフランスを支持するなど、事態は全面戦争にまで至るかに見えたが、これと並行して独仏は、[[7月9日]]以降問題解決のため交渉を重ね、[[10月11日]]にモロッコ協定、[[11月3日]]にコンゴ協定がそれぞれ成立した。ドイツはモロッコに対する要求を放棄し、その代償として[[フランス領コンゴ]]の一部であった[[ノイカメルーン]]を獲得し、{{仮リンク|[[ドイツ保護領カメルーン (植民地)|en|Kamerun|label=ドイツ領カメルーン}}]]の領土を拡大した。
 
[[1912年]][[3月30日]]、フランスはスルタンと[[フェス条約]]を締結。これによりモロッコは、他国の保護に甘んじることとなった。[[セウタ]]や[[メリリャ]]など北部と[[スペイン領サハラ]]に接する南部はスペインの保護領に、残る大部分の国土はフランスの保護領となった。また、[[タンジール]]とその周辺の373平方kmに関しては国際管理都市とされ、列強の勢力均衡が図られた。