「ディアーヌ・ド・ポワチエ」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Tidiview (会話 | 投稿記録)
m編集の要約なし
2行目:
'''ディアーヌ・ド・ポワチエ'''(Diane de Poitiers, [[1499年]][[9月3日]] - [[1566年]][[4月25日]])は、[[フランス王国|フランス]]の[[貴族]]女性。[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]と[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]の親子2代のフランス王の時代に宮廷に出入りしたが、特にアンリ2世の[[妾|愛妾]]として有名である。
 
== 生涯 ==
=== 前半生と結婚生活 ===
ディアーヌ・ド・ポワチエは、サン・ヴァリエの領主ジャン・ド・ポワチエ(1539年没)とジャンヌ・ド・バタルネの娘として、サン・ヴァリエ城で生まれた。サン・ヴァリエは[[ローヌ=アルプ地域圏|ローヌ=アルプス地方]]の[[ドローム県]]にある街である。
 
まだ少女の時に、[[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]の娘[[アンヌ・ド・ボージュー]]の随員だった時期がある。アンヌは弟[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]の未成年期にはフランス[[摂政]]を務めたこともある強い女性であった。
 
15歳の時、39歳年上のアネ([[:fr:Anet (Eure-et-Loir)|fr]])の領主ルイ・ド・ブレゼ([[:fr:Louis de Brézé|fr]])と結婚する。ルイはモレヴリエ伯ジャック・ド・ブレゼを父に、[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]の孫で、[[フランアニェス・ワ1レル]]の庶子シャルロットを母に持ち、シャルル7 (フラの寵臣{{仮リス王)|ピエール・ド・ブレゼ|fr|Pierre de Brézé}}を祖父に持つ人物でフランソワ1世]]の宮廷に仕えた。ディアーヌはルイとの間に、以下の2人の娘を産んだ。
* フランソワーズ・ド・ブレゼ(1518年 - 1574年) - ブイヨン公ロベール4世・ド・ラ・マルクと結婚
* ルイーズ・ド・ブレゼ(1521年 - 1577年) - オマール公[[クロード2世 (オマール公)|クロード2世]]と結婚
13 ⟶ 14行目:
[[1524年]]にディアーヌの父ジャンは、[[ブルボン公]][[シャルル3世 (ブルボン公)|シャルル3世]]の共犯者として反逆罪で訴えられるが、処刑寸前にフランソワ1世によって断頭台から救い出された。
 
ルイ・ド・ブレゼ[[1531年]]にアネで死ぬと、ディアーヌは残りの人生を黒い(後年には白と灰色も加えた)喪服で過ごす。以後、彼女は財政問題と迅速な法務処理に強い関心を示すようになる。ディアーヌは夫の[[ノルマンディー]]知事としての報酬と大宮内官の称号をようやく手に入れ、自身もノルマンディー宮内官夫人の称号を得る。
 
彼女はルイ・ド・ブレゼの遺産を国王に返納することに異議を唱え、裁判所に訴えた。王は「それらの土地の全容が解明するまで」彼女が資産収入を保持することを認めた。
 
ルイ・ド・ブレゼの存命中から、彼女ディアーヌは[[クロード・ド・フランス]](フランソワ1世の最初の王妃)の侍女となった。クロードの死後は[[ルイーズ・ド・サヴォワ]](フランソワ1世の母)、次いで[[レオノール・デ・アウストリア|エレオノール・ドートリッシュ]](フランソワ1世の2番目の王妃)の侍女となった。
 
=== 愛妾としての生活 ===
[[Image:Three-Crescents-Diane-Poitiers.png|right|thumb|150px|ディアーヌ・ド・ポワチエの紋章。交差した三日月が3つ。]]
[[1525年]]の[[パヴィアの戦い]]でフランソワ1世が[[神聖ローマ皇帝]]兼[[スペイン]]王[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の軍隊の捕虜となった後、王太子[[フランソワ3世 (ブルターニュ公)|フランソワ]][[ドーファン|王太子]]とアンリの2人の王子は父と引き換えに、人質としてスペインに送られた。身代金の到着が遅かったため、当時8歳と7歳だった2人の王子は不安定な孤立状態のまま、荒れた城で4年近くを過ごさねばならなかった。アンリは「Amadis de Gaula」という王の遍歴の物語を読むことに慰めを見い出していた。この本から強い印象を得て、アンリはディアーヌを上流夫人の理想像と感じたのかも知れない。
 
アンリの母クロードはすでに亡くなった後であり、彼がスペインに送られるときに別れのキスを送ったのはディアーヌであった。12歳になってアンリがようやくフランスに戻ると、フランソワ1世はディアーヌにアンリの家庭教師役を命じ、彼に上品な振る舞いを教えるよう促した。1531年、フランソワの新しい妻エレオノールを王妃に迎える馬上試合で、兄フランソワが新王妃に敬礼したのに対し、アンリはディアーヌに敬礼を贈ったのだった。
 
[[Image:François Clouet 002.jpg|thumb|180px|left|フランソワ・クルーエによる絵]]
1533年、[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]は[[カトリーヌ・ド・メディシス]]と結婚する。この同盟には反対意見も見られた。[[メディチ家]]はフランス宮廷の多くの眼から見れば、突如出世した存在に過ぎなかったからである。<!--ルイ・ド・ブレゼと 英語版の間違い? 1531年に死去-->ディアーヌは、この選択を支持した。ディアーヌとカトリーヌは実は縁戚関係にあった。2人とも[[ラ・トゥール・ドーヴェルニュ家]]の直系の子孫だったのである<ref>カトリーヌの母方の祖父は、ディアーヌの父方の祖母と兄弟関係にあった。</ref>実際カトリーヌにとってディアーヌは、ライバルであるとともに押し付けがましい年上の従姉妹でもあった。将来の国王夫婦には子供がなく、彼女の支配をカトリーヌが拒絶しているという噂を気遣って、ディアーヌはアンリが妻の寝室を頻繁に訪れるように仕向けた。
 
ディアーヌは[[1551年]]まで彼らの子供たちの教育係を務めた。彼女の娘のフランソワーズはカトリーヌの召使の管理役を務めた。アンリとカトリーヌの間には結局10人の子供が生まれた。一方、たまさかの訪問で、2人の間には子供も無かったにもかかわらず<ref>アンリ2世の庶子を産んだ女性は少なくとも3人おり、[[フィリッパ・ドゥーチ]]、[[ジャネット・ステュアート|フレミング卿夫人]]、[[ニコル・ド・サヴィニー]]である。</ref>、ディアーヌ・ド・ポワチエはアンリの生涯の友であり、この後の25年間も、彼女は彼の人生に大きな影響力を及ぼした([http://www.websters-dictionary-online.org/definition/english/Di/Diane_de_Poitiers.html])。
2人の書簡から推測して、ディアーヌがアンリの愛妾となったのは[[1538年]]のことだと一般に考えられている。
 
ディアーヌは美しい女性として知られ、芸術作品の中にも見られるように、50代になってもその容貌が衰えることがなかった。偉大な芸術家[[フランソワ・クルーエ]]が署名した絵はただ2枚が現存するだけだが、そのうちの1枚がディアーヌの絵である。絵の題材は、浴室に座る裸のディアーヌである([http://gallery.euroweb.hu/html/c/clouet/francois/diane.html])。
35 ⟶ 36行目:
[http://www.mondo-marion.com/images/diane.jpg] [http://www.editionsmontparnasse.fr/france/english/images/loire_tc/diane.jpg])。すべての絵が、力強くて魅力的な女性を表現しているようである。
 
[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]の存命中、ディアーヌ・ド・ポワチエは宮廷で王のお気に入り[[アンヌ・ド・ピスルー・デイリー]]と寵を争わねばならなかった。フランソワ1世が[[1547年]]に死去すると、ディアーヌはどうにかアンヌを自領に追放することに成功する。
 
ディアーヌは知性、政治的洞察力に優れており、アンリ2世は多くの公式書類をディアーヌに任せ、2人の名を併せて「HenriDiane」と署名することさえ許した。彼女は「玉座の後ろのブレーン」であった。彼女は自信に満ちており、その成熟とアンリ2世への忠誠により、王にとっては宮廷で最も信頼に足る盟友となった。宮廷における彼女の地位を物語るエピソードとして、[[教皇]][[パウルス3世 (ローマ教皇)|パウルス3世]]が新王妃カトリーヌに「[[黄金のバラ]]」を贈った際、忘れることなく王の愛妾ディアーヌにも[[真珠]]のネックレスを贈った、というものが挙げられる。
 
アンリ2世の子どもたちはディアーヌの影響下に育ったとされ、またアンリ2世の長男[[フランソワ2世 (フランス王)|フランソワ]]の妃で[[スコットランド]]女王の[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー・ステュアート]]も彼女の影響を強く受けたという。
 
短期間に彼女はかなりの権力を行使した。[[1548年]]にはヴァランティノワ公爵夫人という一流の称号を、ついで[[1553年]]には[[エタンプ]]公爵夫人の称号を得た([http://www.editionsmontparnasse.fr/france/english/cultural_tourism/loire.html])。
45 ⟶ 46行目:
王がディアーヌに全幅の信頼を置いていたため、王妃カトリーヌはひどく嫉妬に苦しんだ。アンリはディアーヌにフランスのクラウン・ジュエルを預けたり、彼女のためにアネの城を建てたりするだけでなく、カトリーヌ自身も欲しがっていた王室所有の美しい城、[[シュノンソー城]]をディアーヌに与えたのである。しかし王が存命する限り、王妃は無力でこの状態を変えることはできなかった([http://www.editionsmontparnasse.fr/france/english/cultural_tourism/loire.html])。
 
=== 王の死、ディアーヌの没落 ===
ディアーヌが王に及ぼす力はそれほど大きかったにもかかわらず、彼女自身の地位は王の愛顧に依存しており、彼は権力を保持し続けた。[[1559年]]、アンリ2世が[[馬上槍試合|馬上試合]]で重傷を負うと、王妃[[カトリーヌ・ド・メディシス]]が支配権を握り、王への接見を制限した。王は繰り返しディアーヌの名を叫んだと言われているが、彼女が呼び出されたり認められたりすることはなかった。カトリーヌは王がディアーヌに贈ったもののリストを作っており、王の死後直ちにディアーヌにその全ての返還を迫ったという。さらに王の死に際しては、葬儀に招かれることさえなかった。
 
その後すぐに、カトリーヌはディアーヌを[[シュノンソー城]]から追放して[[ショーモン城]]に移した。ただし、実際にはショーモン城のほうが付属する領地からの収入が多かったし、シュノンソー城は王や来客接待用の城であり、王亡き後のディアーヌにはあまり接待の必要もなかったことから、「無理やり」ではなく双方合意の上だったという説もある。ディアーヌはショーモンに短期間滞在しただけで、残りの人生を[[ウール=エ=ロワール県]]のアネにある自分の城で、誰にも顧みられず、しかし平安に過ごした。1566年にディアーヌは67歳で死んだ。彼女の望みもあり、ディアーヌの娘は城の近くに霊安堂を建てて彼女の墓とした。
 
[[1866年]]には彼女の書簡が公開されている。