「ウィッシュボーン・アッシュ」の版間の差分

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そのツインギターは[[オールマン・ブラザーズ・バンド]]とは違い、プログレッシヴ・ロックやフォーク、クラシックに強い影響を受けていた。この頃新しいバンド名を考案しようとした際に「ウィッシュボーン」と「アッシュ」の2例が上がり、マーティン・ターナーがその2つを組み合わせてバンド名とした。
 
1970年代初頭、[[ディープ・パープル]]の前座を勤めた事を切っ掛けに、ディ[[リッチブラックモア]]はパープルは自分も手がけこと初期のプロデューサーでったる[[デレク・ローレンス]]にウィッシュボーン・アッシュを推薦。プロデビューへの道が開く。
 
[[1970年]]、[[MCA]]より『光なき世界』(原題Wishbone Ash)を発表しアルバムデビュー。このアルバムの最後に収められている曲『フェニックス』(Phoenix)は、現在でもライブで演奏される代表曲の一つである。
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[[1972年]]に発表した3枚目のアルバム『百眼の巨人アーガス』(Argus)は、ツインリードスタイルの完成を果たしたことでバンドの最高傑作と称され、英国チャート3位に入る。このアルバムは内容もさることながら、[[ヒプノシス]]によるジャケットデザインでも現在に受け継がれる傑作とされる。また、この作品には[[マーティン・バーチ]]がサウンドエンジニアとして参加している。このアルバムは音楽雑誌の読者投票によって「ロックのベストアルバム」に選出され、「アルバム英国部門一位」(Melody Maker magazine)となった。
 
1973年『ウィッシュボーン・フォー』(Wishbone Four)はデレク・ローレンス抜き、セルフ・プロデュースで制作された最初のアルバムである。同年、ライブ盤『ライブ・デイト』(Live Dates)もリリースした。イギリスでの成功を収めたバンドはアメリカ市場への挑戦のため当地に移住するが、その矢先にテッドが脱退。[[ホーム (バンド)|ホーム]]よりローリー・ワイズフィールドが加入。
 
1974年『永遠の不安』(There's the Rub)、1976年『限りなき束縛』(Locked In)は[[トム・ダウド]]によってプロデュースされ、キーボードを取り入れ、アメリカ市場を意識した音作りに転換していった。なお『限りなき束縛』には、[[ホイットニー・ヒューストン]]の母シシー・ヒューストンがコーラスで参加している。
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1987年、バンドの初期マネージャーであるマイルス・コープランドが立ち上げた新レーベルより、オリジナルメンバーによるインストアルバム制作の話が持ちかけられ、それを機に、テッド・ターナー、マーティン・ターナーが復帰、14年振りに往年の編成が復活し、アルバム『Nouveau Calls』がリリースされた。インストアルバムであった為『Nouveau Calls』の売り上げは低調であったものの、それに伴うオリジナルメンバーによるツアーは大好評を博し、70年代以来の大規模なものとなった。
 
1989年、従来通りの歌物を含んだアルバム『Here to Hear』をリリースするものの、翌年、アプトンが音楽界からの引退を表明し、オリジナルメンバーでの復活は、3年弱で終焉を迎えることとなる。ついで1991年にマーティン・ターナー、1994年にテッド・ターナーが脱退し、全盛期を知るメンバーはパウエル一人となる。その後何度もメンバーチェンジを繰り返し、が頻発。現在のウィッシュボーン・アッシュはパウエルのみがオリジナルメンバーとなる。当時からベテランには珍しく比較的コンスタントに新作を発表しているが、ライヴで演奏されるのはほとんどが70年代の全盛期の曲であり、『百眼の巨人アーガス』の完全再現も行っている)である。
 
==備考==