「十二表法」の版間の差分

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リウィウスから少し加筆
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伝承によれば、十二表法の制定以前のローマにおいては法知識は[[パトリキ]](貴族)に独占されており、そのことに対する[[プレブス]](平民)の不満は強かった。プレブスの強まる成文法への要求に対しパトリキ側もその作成を約束し、[[古代ギリシア|ギリシア]]の[[アテナイ]]に使節を派遣しローマの成文法の参考とした。
 
[[ティトゥス・リウィウス]]によれば、[[紀元前486年]]の[[土地分配法]]提出以降、毎年のように[[護民官]]の提出するプレブスの権利拡大や、パトリキの権限制限を狙った法案を巡って争いが起きており、その妥結点として、パトリキとプレブス双方から責任者を選出して新しい法を定める事が提案され、責任者についてはひとまず置き、[[ソロン]]の法や社会制度の研究のため[[紀元前454年]]に使節が派遣されたという<ref>[[ティトゥス・リウィウス|リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』3.31</ref>。
成文法の作成はローマの最高の権限を与えられた[[アッピウス・クラウディウス]]ら[[十人委員]]が担当し、[[紀元前451年]]にまず十の法が制定された。その翌年に第二次十人委員によって二つが追加された。
 
成文法の作成はローマの最高の権限を与えられた[[アッピウス・クラウディウス・クラッスス・インレギッレンシス・サビヌス|アッピウス・クラウディウス]]ら[[十人委員]]が担当し、その間は[[執政官]]や護民官といった通常の高位官職は停止された。[[紀元前451年]]にまず十の法が制定された。その翌年に第二次十人委員によって二つが追加された<ref>[[ティトゥス・リウィウス|リウィウス]]『[[ローマ建国史]]』3.33-37</ref>
 
こうして制定された法は十二の銅板(異説あり)に刻んで公布されたとされ、この銅版は[[フォルム・ロマヌム]]におかれたとされる。十二表法はローマ人の教養として暗唱させられることもあったといい、[[紀元前387年]]の[[ガリア人]]の襲来によって十二枚の銅版は失われたとされるものの、様々な著作に残る断片の引用からその内容はほぼ完全なかたちで復元されている。
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*制定したのが誰であろうと、制定された法の法的拘束力は有効である。
 
==脚注==
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==関連項目==