「西郷隆盛」の版間の差分

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* [[青年]]、[[壮年]]期においては妻のほか愛人を囲うなど享楽的な側面も見せた。祇園の芸妓だった君尾の回想をまとめた『維新侠艶録』や[[勝海舟]]の『氷川清話』によると、肥満の女性が好みで、そのエピソードは[[歌舞伎]]の演目『西郷と豚姫』でも今に伝わっている。しかし、晩年は禁欲的な態度に徹した。
* 郷土の名物、黒豚の肉が大好物だったが、特に好んでいたのが今風でいう肉入り野菜炒めと[[豚骨料理|豚骨]]と呼ばれる鹿児島の郷土料理であったことが、愛加那の子孫によって『鹿児島の郷土料理』という書籍に載せられている。
* 沖永良部島は台風・日照りなど自然災害が多いところであったが絶海の孤島だったので、災害が起きたときは自力で立ち直る以外に方法がなかった。そのことを知った西郷は『社倉趣意書』を書いて義兄弟になっていた間切横目(巡査のような役)の[[土持政照]]に与えた。社倉はもともと朱熹の建議で始められたもので、飢饉などに備えて村民が穀物や金などを備蓄し、相互共済するもので、江戸時代には[[山崎闇斎]]がこの制度の普及に努めて農村で広く行われていた(闇斎に学んだ会津藩主[[保科正之]]も導入している)。若い頃から朱子学を学び、また郡方であった西郷は職務からして、この制度に詳しかったのであろう。この西郷の『社倉趣意書』は土持が与人となった後の明治3年(1870年)に実行にうつされ、沖永良部社倉が作られた。この社倉は明治32年(1899年)に解散するまで続けられたが、明治中期には20,000円もの余剰金が出るほどになったという。この間、飢饉時の救恤(きゅうじゅつ)の外に、貧窮者の援助、病院の建設、学資の援助など、島内の多くの人々の役にたった。解散時には西郷の記念碑と土持の彰徳碑、及び「南洲文庫」の費用に一部を充てた外は和泊村と知名村で2分し、両村の基金となった。
* 西郷隆盛が士族兵制論者か徴兵制支持者なのか、当時の政府関係者ですら意見が分かれており、[[谷干城]]や[[鳥尾小弥太]]は前者を、[[平田東助]]は後者であったとする見解を採っている。御親兵導入の経緯などからすれば、士族兵制論者と見るのが妥当であるが、山縣有朋の失脚後も西郷は山縣の徴兵制構想をそのまま継続させたことから、親兵・近衛を通じて形成された山縣に対する西郷の個人的信頼から徴兵令実施を受け入れたと考えられている。ちなみに廃藩置県導入の際に西郷を最終的に同意させたのも山縣であった。
* 晩餐会の席で「作法を知らない」と言って、スープ皿を手に持ってスープを飲み干すなど、飾らない西郷の人柄を、明治天皇はとても気に入っていたと言われる。