「苗木藩」の版間の差分

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== 概要 ==
苗木藩の藩祖は[[遠山友政]]である。友政は美濃の豪族で、父の[[遠山友忠|友忠]]とともに[[織田信長]]に従っていたが、信長死後の東美濃騒動、さらに[[徳川家康]]に与したために所領を失い、苗木は[[河尻秀長]]の所領となった。[[慶長]]5年(1600([[1600]])の[[関ヶ原の戦い]]で河尻秀長は西軍に与したため戦後に所領を没収され、代わって東軍に与して武功を挙げた友政に1万500石が与えられて旧領復帰が許された。ここに苗木藩が立藩した。友政はその後[[大坂冬の陣]]では[[桑名城]]の守備、[[大坂の陣|大坂夏の陣]]では[[松平忠明]]に属して武功を挙げ、[[元和 (日本)|元和]]5年(1619([[1619]])12月19日苗木で死去した。
 
藩政においては小藩ゆえの悲しさから、幕府の相次ぐ手伝い普請や軍役などにより、財政窮乏が早くから始まる。歴代藩主は藩政維持のため厳しい倹約令を出し、[[天保]]年間には給米全額の借り上げを行うなどした。
 
第3代藩主・[[遠山友貞]]は新田開発を行なって4286石の新田を開発したが、第5代藩主・[[遠山友由]]の大坂加番、第6代藩主・[[遠山友将]]の駿府加番による出費や第7代藩主・[[遠山友央]]の相続に伴う500石の幕府返上などがあって、根本的な財政の改善には至らなかった。最後の藩主・第12代の[[遠山友禄]]は[[文久]]元年(1861([[1861]])と[[元治]]元年(1865([[1865]])の2度にわたって[[若年寄]]となり、[[慶応]]元年(1865年)に大坂警備や[[長州征討|第二次長州征伐]]に参加したことなどの出費が重なって財政は火の車となり、従来の倹約令に加えて5種類の[[藩札]]発行による改革を図ったが、遂に財政は破綻した。
 
[[明治維新]]後、14万3千両、藩札1万5900両あった藩の借金は、苗木城破却に伴う建材や武具などの売却、藩士卒全員を帰農、家禄奉還させ家禄支給を削減し、さらには帰農法に基づいて旧士族に政府から支給される扶持米を[[大参事]]以下40名が3年間返上させること、[[知藩事]]遠山友禄の家禄の全額を窮民救済と藩の経費とすることにより、[[明治]]4年(1871([[1871]])8月には5万2600両、藩札5千両にまでに縮小した。しかし旧苗木藩士の生活は年々逼迫し、自殺者まで出る事態となった。さらに明治4年の[[廃藩置県]]により、苗木藩は苗木県を経て岐阜県に吸収され、当初約束されていた家禄奉還の補償は不可能となった。また明治政府からではなく苗木藩庁の指示により他藩よりいち早く家禄奉還して、全員が[[士族]]から[[平民]]へ移っていたため、旧藩士卒は旧士族として認められないという事態に陥った。このことなどにより、財政改革や後述する廃仏毀釈を主導した大参事[[青山直道]]に恨みは集中し、明治9年(1876年)に旧藩士4名が青山の暗殺計画を決行、当人は当日不在だったため屋敷に放火される。明治24年(1891([[1891]])にも襲撃未遂事件が起こっている。
 
*[[享保]]17年(1732([[1732]])下野村の内の500石を幕府に返上したため下野村の一部が公儀御料となる。
*[[明治]]4年(1871年)の[[廃藩置県]]によって苗木県となり、その後、岐阜県に編入された。
 
== 廃仏毀釈 ==
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維新直後、[[平田篤胤|平田]]派[[国学]]の影響を受けた藩政改革が図られ、[[青山景通]]、[[青山直道]]の親子らが先頭に立って、領内で徹底した[[廃仏毀釈]]が実行された([[東白川村]]の蟠龍寺などの例がある)。[[明治]]3年([[1870年]])9月27日、苗木藩庁は、支配地一同が神葬改宗したので、管内の15か寺の廃寺と、その寺僧たちに還俗を申し付けたことを、弁官(中央役人)に届けた。
*[[恵那郡]]
**[[苗木村]] 雲林寺・仏好寺
**[[福岡村]] 片岡寺 
**[[蛭川村]] 宝林寺 
**[[坂下村]] 長昌寺
**[[高山村]] 岩松寺
**[[中野方村]] 心観寺
**[[河合村]] 竜現寺
*[[加茂郡]]
**[[飯地村]] 洞泉寺
**[[黒川村]] 正法寺   
**[[赤河村]] 昌寿寺
**[[神土村]] 常楽寺
**[[姫栗村]] 長増寺
**[[犬地村]] 積善寺
**[[切井村]] 龍気寺 
この届け書によると、廃寺は15か寺となっているが、実際には苗木の雲林寺の[[塔頭]]の正岳院や、加茂郡[[大沢村]]の蟠龍寺も廃寺となっている。