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趙王となった武臣は領土拡大を狙い秦の諸城を攻めていた。その指揮官の一人、李良将軍は援軍を申し入れようと邯鄲に戻っていた。そこで武臣の姉の一行と出会ったので平服したが、武臣の姉は酒宴の帰りで酒に酔っていて礼を欠いた行動を取り、李良は激怒。邯鄲に戻る前に李良は秦から引き抜きを受けており、このことで李良は謀反を決意、武臣の姉の一行を皆殺しにするとその勢いで邯鄲を攻め、武臣と左丞相の邵騒を討ち取った。だが、間一髪のところで張耳と陳余は逃亡した。
 
張耳と陳余は趙王の子孫である{{仮リンク|趙歇|zh|趙歇}}を探し出して趙王にし、信都を都に定めると、裏切った李良を攻めて打ち破った。李良は秦の[[章邯]]のもとへ逃亡、章邯は直ちに部下の王離を信都へ向かわせ、章邯は堅城である邯鄲を打ち壊して籠城できない廃墟にしてしまった。邯鄲籠城をあきらめた張耳と趙歇は[[鉅鹿郡|鉅鹿]]に向かい、陳余は援軍を求めて常山に向かった。
 
章邯はまず鉅鹿の糧道を絶ち、鉅鹿の兵は飢えはじめた。陳余は援軍を率いてやって来たものの章邯軍の多勢ぶりを恐れてただ見守っているしかなく、張耳は何度も救援要請をしたが、陳余は動かなかった。そこで張耳は家臣の張黶(ちょうえん)と陳余の親族である陳澤を使者に送り「かつて刎頸の交わりを交わし、また数万の軍を擁しながらなぜ援軍を送らないのか? 援軍を送って共に死んでくれないか」という手紙を送った。だが、陳余は「ここで援軍を派遣しても無駄死にするだけだ」と断った。張黶と陳澤は食い下がって5千の兵を陳余から借りて章邯軍を攻めたが、歯が立たずに二人とも戦死し、5千の兵は全滅した。これを見ていた他国の援軍や張耳の息子の[[張敖]]も章邯の強さを恐れ、見守るしかなくなってしまった。