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== 経歴 ==
=== 幼少期 ===
実家は洲本の市街地で堀井ガラス店というガラス屋を営んでいた<ref>{{cite web|url=http://www.sankei.com/region/news/170717/rgn1707170011-n1.html|title=ドラゴンクエストミュージアム、堀井氏の故郷・洲本で開幕|date=2017-7-17|accessdate=2018-1-24}}</ref>。幼少時は弁護士志望だったが、中学時代に[[漫画家]]志望に転換。[[兵庫県立洲本高等学校]]時代は漫研に所属していたが、水泳部、ブラスバンド部(サックス担当)、さらに生物部、茶道部を掛け持ちしていた。この頃は、本気で漫画家になるつもりだったという。夜更かしが多くなり、遅刻の常習犯になった。自宅から学校まで自転車で5分くらいの距離だったにもかかわらず、高校2年の成績表を見ると出席日数210日のうち、197日遅刻しているほどだった。
 
高校3年の夏休みに[[永井豪]]の仕事場にアシスタント入りを志願しようと原稿を持って行くが断られ、「とりあえず大学にでも行くか」と受験勉強を始めた。早稲田を受けた理由は、漫画家志望で文学部が妥当だが歴史が出来なく、得意科目であった数学が受験科目にあるためと後に語っている<ref name="waseda">{{Cite web|url=http://www.waseda.jp/inst/weekly/features/specialissue-draque1/|title=堀井雄二インタビュー(前編)|publisher=[[早稲田大学]]|date=2016-8-3|accessdate=2016-8-18}}</ref>
=== 早稲田大学進学、ライターの道へ ===
 
[[1972年]]に[[早稲田大学]][[第一文学部]]に入学。早稲田大学漫画研究会に入部し、同世代に[[国友やすゆき]]や[[えびなみつる]]、[[大川清介]]がいる<ref name="waseda"/>。その後、同年11月に起こった事件([[川口大三郎事件]])により、大学が[[ロックアウト]]により1年間休校になった<ref name="waseda"/>。堀井は「身分は学生なのに、授業に出なくてもいい。この環境は、高校を出たばかりの少年を呆けさせるのに十分だった」と語っている<ref>堀井雄二『虹色ディップスイッチ -ファミコン業界クエスト-』(1990年、ログインブックス) p.123 - p126。</ref>。
 
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1980年から『[[月刊アウト]]』([[みのり書房]])で読者投稿コーナーの一つを担当<ref>同誌は読者投稿が大きな柱となっていたため堀井だけではなく、OUT編集部も含めた複数のライターが読者投稿コーナーを連載担当していた。</ref>。[[1981年]]から[[小池一夫]]の[[劇画村塾]]で第三期生として学ぶ。この頃、月刊アウトの投稿者管理(投稿が採用されると番号が与えられ、ポイントを貯めるとグッズが贈られた)のために[[パーソナルコンピュータ|パソコン]]の導入を図ったが、[[パソコンゲーム]]にはまり、のちに自作をはじめる。
 
=== ゲームクリエイターに転業 ===
[[1982年]]から『月刊アウト』で担当の読者投稿コーナーを「ゆう坊のでたとこまかせ」にリニューアルし、人気を博す。同年、鳥嶋から[[エニックス]]の第1回ゲーム・ホビープログラムコンテストの取材を依頼されたのを機に、自らも[[PC-6000シリーズ|PC-6001]]で自作した『ラブマッチテニス』を応募し、[[入選プログラム賞]]を取る。コンテストの授賞式で[[森田和郎]]や[[中村光一]]と知り合う。
 
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[[1985年]]から『週刊少年ジャンプ』で「[[ファミコン神拳]]」というコーナーを、'''ゆう帝'''という[[ペンネーム]]で、[[1986年]]からは『ログイン』でゲームに関するエッセイの連載を持つ。また、1985年にさくまが中心となって創刊された新人漫画家発掘誌『[[マンガハウス]]』に編集者として関わったほか、読売新聞でゲームに関するコラムを短期連載し、『ラブマッチテニス』の賞金で買ったAppleII互換機でハマった『ウィザードリィ』を紹介している。
 
1986年に「[[ファミリーコンピュータ|ファミコン]]初の正統派RPG<ref>堀井雄二『虹色ディップスイッチ -ファミコン業界クエスト-』(1990年、ログインブックス) p.26。</ref>」である『ドラゴンクエスト』を発表。同作品はシリーズ化され、1988年に発売された第3作『[[ドラゴンクエストIII そして伝説へ…]]』は社会現象と呼ばれるほどの人気を獲得。日本においてゲームマニアがパソコンでするジャンルというイメージが付いていたRPGが家庭用ゲーム機の主要ジャンルになるという劇的な[[パラダイムシフト]]を起こした。また、『III』のヒットはゲームクリエイターという職業が注目されるきっかけ、あるいは過去の人物の再評価のきっかけを作り、堀井は『III』のヒットを機に職業をフリーライターからゲームクリエイターに改めた。以後、ドラゴンクエストシリーズの制作を主軸に活動することになる
 
=== 洲本名誉市民に ===
[[2008年]][[9月24日]]、[[ふるさと納税]]の制度を利用して洲本市に950万円を寄付している<ref>[https://web.archive.org/web/20081211072323/http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0001510007.shtml 「ドラクエ」の堀井雄二さん、洲本市にふるさと納税] [[神戸新聞]] 2008年10月7日付 2009年7月31日閲覧。</ref>。以降も毎年洲本市にふるさと納税を行っている<ref name=sumotogikai_v46>{{cite web|format=pdf|url=http://www.city.sumoto.lg.jp/contents/F20150427133445001161723344.PDF||page=2|title=すもと市議会だより46号|publisher=洲本市市議会事務局|accessdate=2018-1-24}}</ref><ref name=mainichi20171221>{{cite web|url=https://mainichi.jp/articles/20171221/k00/00e/040/183000c|title=ドラクエ生みの親、名誉市民に|publisher=毎日新聞|date=2017-12-21|accessdate=2018-1-24}}</ref>。
 
2010年9月に行なわれた[[東京ゲームショウ]]2010の「[[日本ゲーム大賞]]」にて「経済産業大臣賞」を受賞した<ref>[http://blog.square-enix.com/dqix/2010/09/post_142.html DQIX情報ブログ2010年9月16日「経済産業大臣賞&ベストセールス賞受賞!」より。] 2012年6月28日閲覧。</ref>。
 
2017年12月20日、洲本市議会は堀井を洲本[[名誉市民]]に選定することに同意し<ref name=sumotogikai_v46 /><ref name=mainichi20171221 />、翌2018年2月11日、正式に名誉市民号が授与された<ref name=sankei20180211>{{cite web|url=http://www.sankei.com/west/news/180211/wst1802110046-n1.html|title=「淡路島の野山がドラクエの元に」 兵庫・洲本市、堀井さんに名誉市民称号|publisher=産経新聞|date=2018-2-11|accessdate=2018-2-12}}</ref>。
 
== 人物 ==