「ウィレム4世 (オラニエ公)」の版間の差分
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[[1702年]]、[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ヴィレム3世]]が後継者なしに死去した後、父ヨハン・ウィレム・フリーゾは[[ナッサウ家]]傍系([[ヴィレム1世 (オランダ総督)|ヴィレム1世]]の弟[[ヨハン (ナッサウ=ディレンブルク伯)|ヨハン]]の家系)から[[オラニエ=ナッサウ家]]を継承していたが、[[ホラント州]]他4州の総督職には就かず(これらの州は総督を置かず[[無総督時代]]になった)、[[フリースラント州]]と[[フローニンゲン州]]の総督を父から受け継いだのみであった。ヴィレムは2州の総督の地位を母の後見の下に継承し、[[1722年]]には[[ヘルダーラント州]]の総督にも任じられた。
[[1734年]]、ヴィレムは[[イギリス]]王兼[[ハノーファー選帝侯]][[ジョージ2世 (イギリス王)|ジョージ2世]]の長女アンと結婚した。2人の間の子供のうち2人は流産し、3人は夭逝して、成人したのはカロリーネ([[ナッサウ・ヴァイルブルク家]]に嫁ぐ)、[[ヴィレム5世 (オランダ総督)|ヴィレム5世(オラニエ公)]]の2人だった。[[1739年]]と[[1743年]]にヴィレムは、ナッサウ家傍系のナッサウ=ディレンブルク伯家とナッサウ=ジーゲン伯家の所領を相続した。
[[1747年]]、[[オーストリア継承戦争]]に巻き込まれて[[フランス王国|フランス]]軍の侵攻を受けた連邦共和国は、イギリスの後押しもあって、ヴィレム4世を7州全ての総督に選出して陸海軍総司令官とし、その地位の世襲を宣言した。政務の経験はほとんどなかったものの、ヴィレムは有能な顧問官と民衆の人気に支えられ、[[1748年]]の[[アーヘンの和約 (1748年)|アーヘンの和約]]で、連邦共和国は少なくとも損失は免れた。
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ヴィレム4世は[[1751年]]に死去した。オラニエ公と、世襲になった全州総督の地位は、幼い息子[[ヴィレム5世 (オランダ総督)|ヴィレム5世]]が、母アンの後見の下に継承した。
{{先代次代|[[オラニエ公]]|1711-1751|[[ヨハン・ウィレム・フリーゾ (オラニエ公)|ヨハン・ウィレム・フリーゾ]]|[[ヴィレム5世 (オランダ総督)|ヴィレム5世]]}}
{{先代次代|[[オランダ君主一覧|オランダ総督]]|1747-1751|[[ウィリアム3世 (イングランド王)|ヴィレム3世]]|[[ヴィレム5世 (オランダ総督)|ヴィレム5世]]}}
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