「共同被告同志に告ぐる書」の版間の差分
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==概要==
日本共産党代表であった佐野学と鍋山貞親は検挙後、自分たちのこれまでの天皇制廃止のスローガンが、むしろ左翼の運動の妨げとなると判断する。<ref>石神井会議の時でも、君主制廃止の問題には手をつけずあっさり審議から除いてしまった。1932年9月全協中央委員会に於いても君主制廃止のスローガンは僅から一票の差で採用と決し、これと同時に中央委員会は全部辞職したと云う。その他過去に於ける我々の会合に於いても、この問題には誰もが強いて触れようとはしなかったのである。</ref> 当時、全国の左派共産党員は、ソ連国内安定を優先し、戦争回避(実質革命の棚上げ)姿勢をとる[[コミンテルン]]の方針に既に辟易していた。
議論を通じて両者の見解は「日本独自の[[汎アジア主義|汎アジア]](大東亜)一国社会主義革命を成し遂げることにより世界社会主義革命につなげる」
<日本民族が古代より現代に至るまで、人類社会の発達段階を順当に充実的に且つ外敵による中断なしに経過してきたことは、我々の民族の異常に強い内的発展力を証明している。>
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< この歴史的に蓄積された経験は、今日の発達した文化と相俟ち新時代の代表階級たる労働階級が社会主義への道を日本的に、独創的に、個性的に、且つ極めて秩序的に開拓するを可能ならしめるであろう。><ref>『共同被告同士に告ぐる書』</ref>
▲議論を通じて両者の見解は「日本独自の汎アジア(大東亜)社会主義革命を成し遂げることにより世界社会主義につなげる」<ref>世界社会主義の実現は、形式的国際主義に拠らず、各国特殊の条件に即し、その民族の精力を代表する労働階級の精進する一国社会主義建設の道を通ずる『共同被告同志に告ぐる書』</ref>で一致し、1933年6月10日、この議論を纏める形で『共同被告同志に告ぐる書」と題する声明書を公表した。既に獄中にあった党員に対しても、[[刑務所]]を通じて彼らの転向声明書が配布された。
この声明書の効果は絶大で、一ヶ月もしないうちに幹部の[[高橋貞樹]]・[[三田村四郎]]・[[中尾勝男]]・[[風間丈吉]]・[[田中清玄]]が転向、学者の[[河上肇]]も転向宣言をし、以降雪崩を打ったかのように転向が相次いだ。転向せずに終戦を迎えたのは[[宮本顕治]]など少数のみであった<ref>[[保阪正康]] 昭和史の大河を往く 第251回 [[サンデー毎日]] 2011年3月27日特大号 pp.52-55</ref>。
戦後[[日本教職員組合|日教組]]など左派労組を組織し、[[日本社会党]]を結成したメンバーはこの転向組である。
==要旨==
* 本来世界戦争革命を目指すべきコミンテルンが、1930年代に入るとソ連邦の国策遂行機関としての傾向を強め、戦争回避を各国共産党同志に要求し、革命を完全に棚上げしている。
* コミンテルンは日本の特殊性を根底的に研究せず、日本において君主制反対闘争が渦巻いているとか反戦的運動が激化しているという捏造された虚構に基づいて、日本は、社会主義革命の前に天皇制廃止(ブルジョア革命)に専念すべきと32年テーゼを決定した。
* 天皇制は複雑であり、これまで誰もが強いて触れようとはしなかったというのが日本の特殊事情である。
* われわれ(日本共産党)はコミンテルン決議の事々に無条件服従を求められ、日本の労働運動のの創意の奔放を妨げている。
* 日本共産党指導者の多くは最も誠実優秀であり、党の方向が歪んだのは党指導者に原因があるのではなく、党自体がプロレタリア前衛(指導的革命家)の結合でいられなくなったことが根本問題である。
* 日本民族が、労働階級の開放(社会主義革命)を他の民族よりもより良く成し遂げる能力を豊富に持っており、世界屈指の指導的役割を担うことができる。それは、イ、強固な民族的統一とこれを表現する国家と君主制、ロ・社会的生活の内部的緊密、ハ・家族の社会細胞的役割、二・労働者の優れた生産性、ホ・東洋文明の精神の蓄積による。
* 日本の左翼的労働者運動(革命)は、党にしろ組合にしろコミンテルンの諸関係から断然分離し、新たなる基準においてラジカルに再編成されねばならない。
==参考文献==
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