「ネヴィル・チェンバレン」の版間の差分

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=== 首相職 ===
====就任====
[[1937年]][[5月28日]]に、[[スタンリー・ボールドウィン]]の後を受けて保守党党首およびイギリス首相の座に就く。なお直前の[[5月12日]]には、新国王の[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]が戴冠式を行ったばかりであった
 
==== 内政 ====
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当時の保守勢力の主流にとって、ソ連を頂点とする[[共産主義]]陣営や、彼らによる[[共産主義革命]]の誘発への警戒心は強かった。そこで、ヒトラー政権を抑えてソ連に付け入る隙を与えるよりは、対ソの[[勢力均衡|抑止力]]となることを期待したのである。イギリスが、世界をにぎわせた[[スペイン内戦]]に不介入で通したのも、介入すればそれが世界大戦の引き金になり、ソ連を喜ばせるだけであるという判断があったからだった。
 
なおミュンヘン会談から帰国したチェンバレンを迎えた[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]は、チェンバレンに[[バッキンガム宮殿]]のバルコニーで国王夫妻とともに、国民からの歓迎を受ける特権を与えた。国王と政治家の友好関係を大衆の前で見せるのは極めて例外的であり、王宮のバルコニーからの謁見も伝統的に王族のみに許される行為だった。
 
しかし一連のチェンバレンによる宥和政策は「ドイツに軍事力を増大させる時間的猶予を与え、ヒトラーに対し、イギリスから近隣諸国への侵攻を容認されたと勘違いさせた」として現在では非難されている。特に1938年9月29日付けで署名されたミュンヘン協定は、後年になり「[[第二次世界大戦]]勃発前の宥和政策の典型」とされ、第二次世界大戦を経た現在では、専門家並びに一般は強く批判されることが多い。