「ネヴィル・チェンバレン」の版間の差分
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=== 首相職 ===
====就任====
[[1937年]][[5月28日]]に、[[スタンリー・ボールドウィン]]の後を受けて
==== 内政 ====
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当時の保守勢力の主流にとって、ソ連を頂点とする[[共産主義]]陣営や、彼らによる[[共産主義革命]]の誘発への警戒心は強かった。そこで、ヒトラー政権を抑えてソ連に付け入る隙を与えるよりは、対ソの[[勢力均衡|抑止力]]となることを期待したのである。イギリスが、世界をにぎわせた[[スペイン内戦]]に不介入で通したのも、介入すればそれが世界大戦の引き金になり、ソ連を喜ばせるだけであるという判断があったからだった。
なおミュンヘン会談から帰国したチェンバレンを迎えた
しかし一連のチェンバレンによる宥和政策は「ドイツに軍事力を増大させる時間的猶予を与え、ヒトラーに対し、イギリスから近隣諸国への侵攻を容認されたと勘違いさせた」として現在では非難されている。特に1938年9月29日付けで署名されたミュンヘン協定は、後年になり「[[第二次世界大戦]]勃発前の宥和政策の典型」とされ、第二次世界大戦を経た現在では、専門家並びに一般は強く批判されることが多い。
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