「共同被告同志に告ぐる書」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
3行目:
 
==概要==
日本共産党代表であった幹部の佐野学と鍋山貞親は、1929年の党弾圧に伴い治安維持法違反で検挙・起訴された。同そのの裁判では他の党幹部と「獄中中央委員会(仮称)を結成、党再建と戦争危機への対処を目指して公判闘争を繰り広げた。しかし、1932年10月の第一審判決は二人とも無期懲役であった。佐野から鍋山に重大な話がもちかけられたのは翌年一月末のことである。

二人は、自分たちのこれまでの天皇制廃止のスローガンが、むしろ"左翼労働者運動"<ref>佐野学ら当時の左翼が頻繁に使う"左翼労働者運動"という用語は、現在では"社会主義革命"と呼ばれることが多い</ref>の妨げとなると判断する。<ref>石神井会議の時でも、君主制廃止の問題には手をつけずあっさり審議から除いてしまった。1932年9月全協中央委員会に於いても君主制廃止のスローガンは僅から一票の差で採用と決し、これと同時に中央委員会は全部辞職したと云う。その他過去に於ける我々の会合に於いても、この問題には誰もが強いて触れようとはしなかったのである。『共同被告同志に告ぐる書』</ref> 当時、全国の左派共産党員は、ソ連国内安定を優先し、戦争回避(実質革命の棚上げ)姿勢をとる[[コミンテルン]]の方針に既に辟易していた。
 
教育現場やマスコミの努力を通じ、[[日本共産党]][[同志]]の運動への情熱がまさに最高潮に至らんとしているにも拘らず、コミンテルンの妨害により、日本共産党が革命に後ろ向きな姿勢をとらされる<ref>弾圧に屈せざる真摯な同志の勇気と熱情にも拘らず、党自身の方向が歪み、ジャーナリズムの喝采を受けても肝腎の労働者大衆の関心から離れ、欠くべからざるプロレタリア的自己批判は放擲され、純真の青年同志や労働者党員は大衆的闘争の中に訓練せられない。『共同被告同志に告ぐる書』</ref>状況に業を煮やした二人は、コミンテルンの束縛下にある日本共産党と決別し、日本独自の果断なる革命を実行していく決意を固めるべく議論を交わした。