「ジョージ6世 (イギリス王)」の版間の差分

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宗主国として世界各地の植民地に君臨する国力も威厳も失ったイギリスは急速に求心力を失い、1947年には[[イギリス領インド帝国]]が、[[インド連邦 (ドミニオン)|インド連邦]]と[[パキスタン (ドミニオン)|パキスタン]]の二国に[[インド・パキスタン分離独立|分離独立]]した<ref>Townsend, pp. 229–232, 247–265</ref>。これにより、ジョージ6世は「[[インド皇帝]]」の称号を失い、「インド王」、「パキスタン王」となっている。1950年にはインドがイギリス連邦に留まったまま共和制へと移行したことから、ジョージ6世は「インド王」の称号も失ったが、「パキスタン王」の称号は生涯保持し続け、インドは「英連邦君主 ([[:en:Head of the Commonwealth]])」という新たな称号を承認した。その他、1948年1月に[[ミャンマー|ビルマ]]、1948年5月に[[イギリス委任統治領パレスチナ|パレスチナ]]、1949年に[[アイルランド]]が、イギリス連邦から脱退している<ref>Townsend, pp. 267–270</ref>。
 
=== 人種差別への怒り ===
1947年に国王一家は南アフリカを公式訪問した<ref>Townsend, pp. 221–223</ref>。翌年に総選挙を控えていた[[南アフリカ連邦]]首相の[[ヤン・スマッツ]]は、この国王一家訪問を政治的に利用することを考えていた<ref>Judd, p. 223</ref>。しかしながらジョージ6世は、南アフリカ連邦政府から白人とのみ握手するよう求められたことに愕然とし<ref>Rhodes James, p. 295</ref>、連邦政府から自身につけられた護衛官たちを、ドイツの秘密警察だった「[[ゲシュタポ]]」と称して非難している<ref>Rhodes James, p. 294; Shawcross, p. 618</ref>。スマッツは1948年の総選挙 ([[:en:South African general election, 1948]]) に敗れ、新たな首相[[ダニエル・フランソワ・マラン]]は人種間差別政策[[アパルトヘイト]]を確立した。
1947年に国王一家は、連邦構成国である南アフリカを公式訪問した<ref>Townsend, pp. 221–223</ref>。翌年に総選挙を控えていた[[南アフリカ連邦]]首相の[[ヤン・スマッツ]]は、この国王一家訪問を政治的に利用することを考えていた<ref>Judd, p. 223</ref>。
 
しかしながらジョージ6世は、人種差別的政策を行う南アフリカ連邦政府から[[白人]]とのみ握手するよう求められたことに愕然とし<ref>Rhodes James, p. 295</ref>、連邦政府から自身につけられた護衛官たちを、ドイツの秘密警察だった「[[ゲシュタポ]]」と称して非難している<ref>Rhodes James, p. 294; Shawcross, p. 618</ref>。また、南アフリカ連邦政府から、[[黒人]]の叙勲者に対して直接[[勲章]]をつけることも拒否され、「あいつら(白人の政府関係者)を全員射殺したい」と漏らした。
 
なおスマッツは[[1948年]]の総選挙 ([[:en:South African general election, 1948]]) に敗れ、新たな首相[[ダニエル・フランソワ・マラン]]は人種間差別政策[[アパルトヘイト]]を確立した。このことにより南アフリカは[[1961年]]にイギリス連邦から追放されている。
 
=== 晩年 ===