「平林たい子」の版間の差分

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現在の[[長野県]][[諏訪市]](旧[[諏訪郡]][[中洲村 (長野県)|中洲村]])出身。貧しい農家に生まれ、12歳の頃に[[ロシア文学]]を読んだことがきっかけで作家になることを決心し、上諏訪町立諏訪高等女学校(現在の[[長野県諏訪二葉高等学校]])に首席で入学。高女時代に[[社会主義]]に関心を持ち始め、同校卒業後に[[上京]]して交換手見習いとして働き始め、[[アナーキスト]][[山本虎三]]と[[同棲]]。山本の姉を頼って朝鮮に渡るが、1ヶ月で帰国。関東大震災直後のどさくさの中で検挙され、東京から離れることを条件に釈放される。結局日本では生活できなかったため[[満州]]に行き、[[大連市|大連]]の病院で出産するが、この女児は栄養不足のため、生まれてわずか24日目に死亡した。[[労農芸術家連盟]]に属し、その体験に基づく『施療室にて』で[[プロレタリア作家]]として認められる。[[1927年]](昭和2年)[[小堀甚二]]と結婚([[1955年]](昭和30年)、小堀に隠し子がいたことが判明したため離婚している)。[[1946年]](昭和21年)『かういふ女』で第1回[[女流文学者賞]]を受賞した。
 
戦後は、[[転向文学]]の代表的作家とも言われ、政治的にも[[民社党]]を結党当初から支持するなど[[反共]]・[[右派]]色を強めていった。更に保守系の言論人団体である[[日本文化フォーラム]]・[[言論人懇話会]]にも参加している。1958年、ソ連政府が[[ボリス・パステルナーク]]のノーベル文学賞授与を辞退させた際、[[日本ペンクラブ]]のソ連政府よりの姿勢を、平林は[[エドワード・G・サイデンステッカー]]らと共に批判した<ref>[[エドワード・G・サイデンステッカー]]「日本との50年戦争―ひと・くに・ことば」(朝日新聞社)P.211</ref>。
 
[[松本清張]]について、複数の助手作家を使った工房形式で作品を作っているのではないか、と韓国の雑誌『思想界』で指摘した。これに対し松本は、『日本読者新聞』において反論している。また『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』誌[[1963年]](昭和38年)7月号に掲載された対談での発言について、[[創価学会]]から組織的とも言える抗議を受けている(なお、この対談では[[藤原弘達]]も出席しており同様に藤原も抗議を受けた)。