「欧陽頠」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m Category:魏晋南北朝時代の人物を除去; Category:中国南朝の人物を追加 (HotCat使用) |
|||
8行目:
梁の左衛将軍の[[蘭欽]]と若くして交友関係にあり、蘭欽が出征すると{{補助漢字フォント|頠}}もまた従軍した。蘭欽が[[衡州]][[刺史]]となると、{{補助漢字フォント|頠}}は[[清遠郡]][[太守]]に任じられた。蘭欽が南征して少数民族の{{補助漢字フォント|[[獠]]}}を討ち、陳文徹を捕らえたとき、{{補助漢字フォント|頠}}も従軍して功績を挙げた。凱旋して直閤将軍となり、[[天門郡]]太守に任じられ、少数民族を討って戦功を挙げた。廬陵王[[蕭続]]に召されて賓客となった。蘭欽が[[交州]]に南征すると、{{補助漢字フォント|頠}}もまた同行した。蘭欽が嶺南で病没すると、{{補助漢字フォント|頠}}は[[臨賀郡]]内史に任じられたが、蘭欽の柩とともに[[建康 (都城)|建康]]に帰り、その後に臨賀郡に赴任した。ときに[[湘州]]と衡州の境に居住する少数民族たちが梁の支配に従わなかったため、{{補助漢字フォント|頠}}は衡州刺史の[[韋粲]]の下で都督となり、征討にあたった。超武将軍の号を加えられ、[[広州]]と衡州の山間部の反乱を討った。
[[548年]]([[太清]]2年)、[[侯景
[[552年]](大宝3年)、侯景の乱が平定されると、{{補助漢字フォント|頠}}は元帝により[[武州]]刺史に任じられた。まもなく[[郢州]]刺史に任じられたが、[[蕭勃]]が北に向かうことを許さなかったため、命を受けることができなかった。まもなく使持節・散騎常侍・都督衡州諸軍事・忠武将軍・衡州刺史に任じられ、始興県侯に進んだ。
|