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梁の左衛将軍の[[蘭欽]]と若くして交友関係にあり、蘭欽が出征すると{{補助漢字フォント|頠}}もまた従軍した。蘭欽が[[衡州]][[刺史]]となると、{{補助漢字フォント|頠}}は[[清遠郡]][[太守]]に任じられた。蘭欽が南征して少数民族の{{補助漢字フォント|[[獠]]}}を討ち、陳文徹を捕らえたとき、{{補助漢字フォント|頠}}も従軍して功績を挙げた。凱旋して直閤将軍となり、[[天門郡]]太守に任じられ、少数民族を討って戦功を挙げた。廬陵王[[蕭続]]に召されて賓客となった。蘭欽が[[交州]]に南征すると、{{補助漢字フォント|頠}}もまた同行した。蘭欽が嶺南で病没すると、{{補助漢字フォント|頠}}は[[臨賀郡]]内史に任じられたが、蘭欽の柩とともに[[建康 (都城)|建康]]に帰り、その後に臨賀郡に赴任した。ときに[[湘州]]と衡州の境に居住する少数民族たちが梁の支配に従わなかったため、{{補助漢字フォント|頠}}は衡州刺史の[[韋粲]]の下で都督となり、征討にあたった。超武将軍の号を加えられ、[[広州]]と衡州の山間部の反乱を討った。
 
[[548年]]([[太清]]2年)、[[侯景]]の乱]]が起こると、韋粲が[[侯景]]を討つために建康に向かったため、{{補助漢字フォント|頠}}は衡州の留守を守った。[[549年]](太清3年)、建康が陥落すると、嶺南地方は割拠の情勢となり、蘭欽の弟で前[[高州]]刺史の蘭裕が[[始興郡]]内史の蕭紹基を攻撃して、始興郡を奪った。蘭裕は亡き兄の友人であった{{補助漢字フォント|頠}}を招いたが、{{補助漢字フォント|頠}}は従わなかった。[[陳霸先]]が侯景を討つべく挙兵し、始興郡に入ろうとすると、{{補助漢字フォント|頠}}は陳霸先と結んだ。蘭裕が軍を派遣して{{補助漢字フォント|頠}}を攻撃してきたが、陳霸先が{{補助漢字フォント|頠}}を救援したため、蘭裕は敗れた。陳霸先は王懐明を衡州刺史とし、{{補助漢字フォント|頠}}を始興郡内史とした。[[550年]]([[大宝 (梁)|大宝]]元年)、陳霸先が蔡路養や李遷仕を討つと、{{補助漢字フォント|頠}}は兵を率いて[[南嶺山脈]]を越え、陳霸先に助勢した。[[元帝 (南朝梁)|元帝]]が承制して始興郡が[[東衡州]]となると、{{補助漢字フォント|頠}}は持節・通直散騎常侍・都督東衡州諸軍事・雲麾将軍・東衡州刺史となり、新豊県伯に封じられた。
 
[[552年]](大宝3年)、侯景の乱が平定されると、{{補助漢字フォント|頠}}は元帝により[[武州]]刺史に任じられた。まもなく[[郢州]]刺史に任じられたが、[[蕭勃]]が北に向かうことを許さなかったため、命を受けることができなかった。まもなく使持節・散騎常侍・都督衡州諸軍事・忠武将軍・衡州刺史に任じられ、始興県侯に進んだ。