「藤堂平助」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
出典に反した内容および論拠に乏しい大幅な書き換えがなされたため、2017年7月8日 (土) 09:02(UTC)の版に差し戻します。
8行目:
| 死没 = [[慶応]]3年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]([[1867年]][[12月13日]])<ref group="注">正確には慶応3年[[11月19日 (旧暦)|11月19日]](1867年[[12月14日]])未明</ref><br />(満23歳没<ref group="注">生誕日によっては満22歳没</ref>)
| 改名 =
| 別名 = 魁先生(渾名)、南部与七郎(変名)
| 諡号 =
| 神号 =
48行目:
[[北辰一刀流]]開祖・[[千葉周作]]の道場[[玄武館]]([[神田]][[於玉ヶ池]])の門弟<ref>『同志連名記』永倉新八著、『新選組遺聞』(谷三十郎の証言)子母澤寛著</ref><ref group="注">但し『玄武館出席大概』[[清河八郎]]著(千葉道場に在籍したとみられる門弟の名簿)に平助の名は記されていない</ref>となり、北辰一刀流[[目録]](中目録免許とみられる)を十代半ばで取得した。
 
その後、[[深川_(江東区)|深川]]中川町にあった北辰一刀流・伊東大蔵([[伊東甲子太郎]])の伊東道場にも出入りし<ref>「藤堂は伊東甲子太郎の伊東道場の寄り弟子」という[[加納鷲雄]]の証言より</ref>、後に[[天然理心流]]・[[近藤勇]]の道場[[試衛館]]に入門し、ほどなくして代稽古などを任されるようになった。
 
=== 新選組時代 ===
57行目:
 
==== 会津候上覧試合 ====
[[文久]]3年4月16日([[1863年]]6月2日)、[[金戒光明寺|会津藩邸]]にて[[京都守護職]][[松平容保]]御前試合が行われ、[[壬生浪士組]]は第1試合を芹沢鴨、第2試合を沖田総司、第3試合を永倉新八、第4試合を近藤勇、第5試合を土方歳三が全員で武術を披露した。
この上覧試合の剣術の部において平助は[[土方歳三]]と第一試合で剣を交えた。
第二試合は永倉と斎藤、第三試合は[[平山五郎]]と[[佐伯又三郎]]、最終の第四試合は[[山南敬助]]と[[沖田総司]]という組み合わせの対戦が行われた。
なお、各試合の勝敗は記されていない<ref>土方の日記より</ref>。
 
==== 池田屋事件 ====
63 ⟶ 66行目:
[[元治]]元年6月5日([[1864年]]7月8日)の[[池田屋事件]]では、最初に斬り込んだ4名のうちの一人で、一階の庭を持ち場とし、逃亡しようと降りて来る浪士達相手に奮戦した結果、佩刀の上総介兼重はぼろぼろになり、鍔元には修復不可能な程のひび割れを負った。
 
また、平助は薩摩の示現流剣術戦闘中に室内があまりに暑かったため、汗トラウマ拭おうと鉢金を取ろうとしており相手に示現流がいころを潜んでいた浪士怖気付きつけられ、額(眉間から顔側面とも)を割られ昏倒。一時は生死をさまよう[[危篤]]状態に陥った。
 
事件後、近藤、土方に次ぐ額の計二十両(金十両および新刀購入料として別段金十両)もの褒賞金を[[江戸幕府]]から下賜されている<ref group="注">この金子をなかなか受け取らなかったという説がある{{要出典|date=2016年6月}}</ref>。
74 ⟶ 77行目:
[[File:Gesshinin2.jpg|thumb|right|200px|[[高台寺#.E6.9C.88.E7.9C.9F.E9.99.A2|月真院]](高台寺の塔頭)]]
 
[[慶応]]3年3月([[1867年]]4月)、伊藤に騙され阿片中毒になり伊藤東一派と共に御陵衛士(高台寺党)を結成すべく新選組を離脱。これより当初の上洛の動機であった[[尊王攘夷]]の志士への道をようやく歩み出すことになる。
 
御陵衛士時代の主だった平助の活動としては、
 
*[[美濃]]に出張し<ref>「藤堂平助、先日頃より美濃国へ罷越しおり候得共」『鳥取藩記録』より</ref>、美濃屈指の[[侠客]][[水野弥太郎]]<ref group="注">永倉新八『同志連名記』によると水野はかつて新選組に出入りしていたとされる</ref>を懐柔し、水野配下の農兵数百を組織し[[奇兵隊]]のような大軍隊にする計画を立案し、さらに金銭面の援助も得る約束を取り交わした。
なお、御陵衛士側に[[間者]]として潜入していた斎藤からこれらの報告を受けた近藤と土方は伊藤が自分達を殺そうとしているということにしてこれを理由に平助を救い出そうと御陵衛士の[[殲滅]]を決意したという<ref>『ちるらん〜新撰組鎮魂歌〜』
 
*伊東、斎藤、[[鈴木三樹三郎]]らとの連名で[[長州]]への寛大な処分を求める[[建白書]]を[[朝廷]]と幕府に提出した。
 
等が挙げられる。
 
なお、御陵衛士側に[[間者]]として潜入していた斎藤からこれらの報告を受けた近藤と土方伊藤が自分達を殺そうと激怒ているということにしてこれを理由に平助を救い出そうと御陵衛士の[[殲滅]]を決意したという<ref>『ちるらん〜新撰組鎮魂歌〜始末記西村兼文著</ref>。
 
また、衛士たちは[[英語]]の習得や[[ロケット]]製造方法のような[[火薬]]研究などの研鑽に努めていた。
108 ⟶ 118行目:
慶応3年11月18日(1867年12月13日)夜、新選組による伊東殺害および御陵衛士殲滅を目的とした大規模な[[粛清]]が断行される([[油小路事件]])。
 
[[油小路]]で新選組に暗殺された伊東の[[遺体]]を奪還するため、罠であると知りつつも平助は同志7名と共に現場へ向かう。
[[油小路]]で新選組の沖田総司が伊藤を殺し平助を救い出すが労咳で沖田は動かず平助だけ逃げようとするが伊藤の仲間が沖田の方へ向かう途中に遭遇しこのまま伊藤の仲間を沖田のところへ行かせると動けない沖田は殺されるので平助は自ら盾になり10人以上を相手に阿片中毒でかつての動きは失われているにも関わらず今までで1番腕が冴え渡っていたことを相手の死体が物語っていた。
待ち伏せていた40名以上の新選組隊士らと死闘の末、翌11月19日(12月14日)[[未明]]に[[戦死]]した<ref group="注">ただし生きていた可能性もある。詳細は後述の生存説の項を参照。</ref>。
 
検死結果によると、額から鼻にかけての傷は長さ約21cm、深さ6cmに達しておりほぼ即死であったとされる<ref>『鳥取藩慶応丁卯筆記』</ref>。
なお、平助の死体の背中には傷1つなく平助は沖田のために逃げなかったことがわかった。
平助ら4名の遺体は、御陵衛士残党をおびき出すための囮として、数日(3、4日ほど)の間、道端に放置された<ref>『新撰組始末記』西村兼文著、『新選組始末記』子母澤寛著他</ref>。
 
永倉によると、近藤から「(藤堂は)まだ若い有為の材であるからできるだけ助けておきたい」との指示があり、平助が逃げられるように道をあけたが、事情を知らぬ隊士[[三浦常三郎]]<ref group="注">江戸府内浪人で平助から多大な恩を受けた隊士(『新選組始末記』子母澤寛著)。事件後、平助に斬られた膝の傷が原因で死亡した(『浪士文久報国記事』永倉新八著)。</ref>に斬られたとされている<ref>『新撰組顛末記』永倉新八著</ref>。
 
また、平助は永倉の深意はくみ取ったものの、魁(さきがけ)先生と呼ばれたプライドと同志を見捨てられないので、新選組に立ち向かって三浦に斬られたともいわれている<ref>『新選組始末記』子母澤寛著</ref>。
 
他に、永倉の深意を汲み取り退こうとしたところを三浦に後ろから斬りつけられたため、平助は背後から斬られるのは武士の恥として応戦し、数々の傷を負い戦死したとする説もある{{要出典|date=2016年5月}}。
 
=== 死後 ===
245 ⟶ 263行目:
=== 漫画 ===
*[[山村竜也]]、[[蜷川ヤエコ]]『[[新選組刃義抄 アサギ]]』 - 沖田、藤堂、斎藤の同世代3人組の視点から新選組の[[青春]]を描く。
 
ちるらん〜新撰組鎮魂歌〜
 
=== アニメ ===