「第四次中東戦争」の版間の差分

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[[File:Anwar Sadat cropped.jpg|thumb|right|エジプトの[[アンワル・サダト]]大統領。イスラエルを交渉のテーブルに着かせ、対米接近に成功したという意味では、エジプトはこの戦争で勝利したといえる。1981年の本戦争での記念パレード中に暗殺された。]]
 
エジプトやシリアをはじめとするアラブ諸国は、またもやイスラエルに軍事的敗北を喫したものの、緒戦での勝利によってイスラエルと対等な条件で交渉に乗り出すことができるようになった。
エジプト・シリアをはじめとするアラブ諸国はまたもやイスラエルに軍事的敗北を喫したものの、緒戦での勝利によってイスラエルと対等な条件で交渉に乗り出すことができるようになった。エジプト・イスラエル間では1978年に[[キャンプ・デービッド合意]]が、続いて1979年3月26日に'''[[エジプト・イスラエル平和条約]]'''が締結され、エジプトがイスラエルを承認すること<ref group="注">2015年現在でもイスラエルを「国家」と承認している周辺国はエジプトと、ヨルダン(1994年)のみ。</ref>、イスラエルがシナイ半島から撤退することが定められた。この条約によって中東戦争は事実上終結することとなった。同時に両国は第二次兵力引き離し協定に調印し、シナイ半島の非軍事化を進めることとなった。ただし[[パレスチナ問題]]の解決については進展はなかった。またエジプトが「抜け駆け」したことに周辺アラブ諸国は猛反発し、1979年にエジプトは[[アラブ連盟]]より追放(1990年に復帰)、サダト大統領自身も1981年10月6日の本戦争記念パレード最中に暗殺された。
 
エジプト・シリアをはじめするアラブ諸国はまたもやイスラエルに軍事的敗北を喫したものの、緒戦での勝利によってイスラエルと対等な条件で交渉に乗り出すことができるようになった。エジプト・イスラエル間では1978年に[[キャンプ・デービッド合意]]が、続いて1979年3月26日に'''[[エジプト・イスラエル平和条約]]'''が締結され、エジプトがイスラエルを国家承認すること<ref group="注">2015年現在でもイスラエルを「国家」と承認している周辺国はエジプトと、ヨルダン(1994年)のみ。</ref>、イスラエルがシナイ半島から撤退することが定められた。この条約によって中東戦争は事実上終結することとなった。同時に両国は第二次兵力引き離し協定に調印し、シナイ半島の非軍事化を進めることとなった。ただし[[パレスチナ問題]]の解決については進展はなかった。またエジプトが「抜け駆け」したことに周辺アラブ諸国は猛反発し、1979年にエジプトは[[アラブ連盟]]より追放(1990年に復帰)、サダト大統領自身も1981年10月6日の本戦争記念パレード最中に暗殺された。
シリア・イスラエル間では平和条約の締結こそなかったが、キッシンジャー米国務長官の「'''シャトル外交'''」と称された仲介工作によって、停戦協定が結ばれ、またゴラン高原のイスラエル・シリア間の国境には緩衝地帯が設けられ、[[国際連合兵力引き離し監視軍]]が停戦監視に当たるようになった。
 
同時に両国は第二次兵力引き離し協定に調印し、シナイ半島の非軍事化を進めることとなった。ただし[[パレスチナ問題]]の解決については進展はなかった。またエジプトが「抜け駆け」したことに周辺アラブ諸国は猛反発し、1979年にエジプトは[[アラブ連盟]]より追放(1990年に復帰)、サダト大統領自身も1981年10月6日の本戦争記念パレード最中に、エジプト軍内の反対派によって暗殺された。
 
シリアイスラエル間では平和条約の締結こそなかったが、アメリカのキッシンジャー国務長官の「'''シャトル外交'''」と称された仲介工作によって、停戦協定が結ばれ、またゴラン高原のイスラエルシリア間の国境には緩衝地帯が設けられ、[[国際連合兵力引き離し監視軍]]が停戦監視に当たるようになった。
 
=== 社会的影響 ===
[[ファイル:Golda Meir 03265u.jpg|thumb|right|イスラエルの[[ゴルダ・メイア]]首相。]]
[[File:Ci-Club12.jpg|thumb|right|200px|第143師団を指揮、名声を博した[[アリエル・シャロン]]少将。その能力は高く評価されたが上官や同僚としばしば対立し、ハイム・バーレブ南部軍司令官は解任を一時真剣に考えたという。1982年に国防相、2001 - 2006年に首相を務めている]]
初めてアラブの侵攻を受け、緒戦で敗北を喫したイスラエル社会は激しく揺さぶられた。奇襲を予想しなかった国防の準備不足は国防大臣[[モーシェ・ダヤン]]の責任となり、世論はダヤンの辞職を要求し、最高裁長官は紛争中にダヤンの職務調査を指示した。委員会は首席補佐官の辞職を推奨したが、ダヤンの判断を尊重した。翌[[1974年]]にダヤンは[[ゴルダ・メイア]]首相に辞表を提出した。
 
合計約19,000人のエジプト人、シリア人、イラク人およびヨルダン人もこの紛争で死亡。エジプトとシリア空軍はその対空防御により114機のイスラエル機を撃墜したがその3倍以上の自軍の航空機442機失った。その中には数十機に及ぶ自軍の対空ミサイルの誤射で撃墜された物を含む。

なお戦闘機パイロットとして出撃したサーダート大統領の弟も緒戦で戦死している。この戦争で国民的英雄となった当時空軍司令官で後のエジプト大統領[[ホスニー・ムバーラク]]はサーダートから副大統領に抜擢される。
 
=== 軍事的影響 ===
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[[File:Tiran-5-latrun-1.jpg|thumb|250px|イスラエル軍は第三次中東戦争で捕獲したT-54/55戦車を改装し、写真のようなTiran-4/5戦車として投入した。]]
 
本戦争は冷戦期の戦争において、双方の陣営がほぼ同レベルかつ比較的最新鋭の兵器を投入した数少ない戦争であった。とくに[[9M14 (ミサイル)|AT-3"サガー"]](ソ連名9M14"マリュートカ")対戦車ミサイルや[[2K12|SA-6"ゲインフル"]](ソ連名2K12"クープ")自走対空ミサイルの活躍が有名である。エジプト軍はこれらの兵器を他の対戦車火器や対空兵器と組み合わせることで濃密な防衛網を構築し、緒戦で反撃に向かったイスラエルの戦車部隊や航空機に多大な損害を与えた。

一方、戦車業界にとって現代版[[クレシーの戦い]]とも称された対戦車ミサイルで戦車が次々と撃破されたことは衝撃的であり、一時は「戦車不要論」も唱えられた。だが本戦争以降開発された第3世代主力戦車は対戦車火器の火力にも十分耐えうる複合装甲の導入により、地上戦力としての地位を取り戻した。

また戦車部隊と歩兵部隊の協同作戦の重要さも再確認され、各国で戦車部隊の行軍に追随できる[[歩兵戦闘車]]や[[装甲兵員輸送車]]の開発、配備が推し進められた<ref group="注">[[BMP-1]]歩兵戦闘車は本戦争で初めて実戦投入された。</ref>。
 
=== 日本への影響 ===