「吉田文三郎」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
6行目:
[[大坂]]の生まれ、父は吉田流の元祖の初代[[吉田三郎兵衛]]。幼名を八之助。幼少から父を陶酔し[[1717年]]に「[[国性爺後日合戦]]」の錦舎役で初舞台を踏む。
 
三人遣いの発案者とされ「[[葛の葉|蘆屋道満大内鑑]]」の安倍保名「[[仮名手本忠臣蔵]]」の由良助「[[義経千本桜]]」の狐忠信等現在に残される名作を演じ「まるで人形が生きているようだ」と評されるほどだった。
 
長年大坂[[竹本座]]の[[座頭]]として勤めたが、[[太夫]]との衝突も多く何度も退座、[[1759年]]には一門を引き連れて一座を建設を計画中の1760年に没。