「林正之助」の版間の差分

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* [[大正テレビ寄席]]打ち切りの一件と、自身の[[山口組]]との黒い交際で[[永六輔]]から非難された。
* 1959年、過労で肺炎になり入院中の[[大村崑]]を当時高価なメロンを持って見舞いに行った。その際、吉本興業との契約の話を申し出たが「これからは仕事をセーブせな又、倒れるから」と大村が断ると「メロンを持って行って断られたのはあんたが初めてや」と言われている。諦めきれず(うめだ花月劇場の開館当初の客寄せの為)[[花登筺]]を通じて契約。しかしギャラ問題で契約は短期に終わる。その後、吉本と疎遠になっていた大村だが(会長の)晩年に「崑ちゃん、あの時は悪い事したなー」と話す会長と抱き合って再会している。
* [[横山やすし]]を可愛がり、やすしがトラブルを起こした時もかばい続けた。しかしやすしが吉本との契約解消に至った時は、「反省の色が無い。これ以上面倒見切れんし、世間も許さんでしょう」とコメントした。また仁鶴に対しては「さん」付けで呼んでいた。
* 親子ほど年が違う[[笑福亭仁鶴 (3代目)|笑福亭仁鶴]]に対して、大物芸人にも呼び捨てで接していた正之助が「さん」付けで呼んでいた。これは仁鶴がテレビ、ラジオ、映画と様々なメディアに吉本の顔として出演し、「吉本の礎を作った」と言われるほど貢献していたことから。
* [[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]が東京進出する前になんばグランド花月で漫才を公演した時、[[浜田雅功]]が冗談で「会長の杖は殴るために持っている」と言った後に、公演後に「人を殴る為に持ってへんぞ」と突っ込みを入れた。
* なんばグランド花月の完成から亡くなる3か月前まで、毎日行われる興行を視察した。
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