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明治31年(1898年)6月28日[[広島控訴院]][[検事長]]を命じられ<ref>『官報』1898年6月30日 p.418。</ref>、明治35年(1901年)6月11日広島控訴院長に昇進した<ref>『官報』1901年6月12日 p.209-210。</ref>。[[大審院]]が[[刑事訴訟]]の上告期間設定を告示すると、これに反対し、広島控訴院では期限を過ぎても受け入れることを謳った<ref name="本"/>。また、法廷での[[弁護士]]の席次を検事と対等とし、院内に警鐘箱を設けて民意を聞いた<ref name="本"/>。
 
明治42年(1908年)2月17日[[函館控訴院]]長を命じられた<ref>『官報』1908年2月18日 p.368。</ref>。明治44年(1911年)8月20日、[[皇太子]][[嘉仁親王(後の[[大正天皇]]を控訴院内を案内し、翌日旅館で陪食した<ref name="本"/>。先の広島行啓でも拝謁していたが、皇太子はその禿頭のため顔に見覚えがあったという<ref name="本"/>。[[中西六三郎]]を中心として控訴院を[[札幌市|札幌]]に移転する計画が立ち上がると、札幌に乗り込んでこれに反対し、在任中の移転は行われなかった<ref name="横"/>。
 
=== 晩年 ===