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[[画像:F-15A-hatzerim-2.jpg|thumb|right|250px|イスラエル空軍のF-15A "Baz" 戦闘機]]
'''イラク原子炉爆撃事件'''(イラクげんしろばくげきじけん)は、[[イスラエル]]空軍機が[[イラク]]タムーズにあった[[原子力]]施設を、'''バビロン作戦'''(別名'''オペラ作戦''')の作戦名で[[1981年]][[6月7日]]に攻撃した武力行使事件である。これはイラクが核兵器を持つ危険性があるとして、イスラエルが「[[先制的自衛]]」目的を理由にイラクに先制攻撃を行ったものである<ref name="筒井12">{{Cite book|和書|author=[[筒井若水]]|year=2002|title=国際法辞典|publisher=[[有斐閣]]|page=12|isbn=4-641-00012-3}}</ref>。この攻撃に対して{{仮リンク|国際連合安全保障理事会決議487|en|United Nations Security Council Resolution 487}}<ref>[http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1982/s57-shiryou-407.htm (7)イスラエル機によるイラク原子炉爆撃に関する国連安全保障理事会決議487(仮訳)]外務省ホームページ</ref>がなされ、イスラエルは非難された<ref name="筒井12"/>。
 
== イラクの核開発 ==
[[産油国]]でありエネルギー資源に不安があるはずもないイラクが原子力開発を行った理由として、イラクは将来の石油資源枯渇を見据え開発したとしていたが、実際にはイスラエルへの対抗目的で、イラクのフセイン政権は核武装を狙っているという疑いがあった。<ref name="Raid on the Sun(ja) P52-53">[[ロジャー・クレイア]] 『イラク原子炉攻撃!』 [[高澤市郎]]訳、[[並木書房]]、2007年、ISBN 4890632158、52-53頁</ref>
このイスラエルが核兵器を保有していると言う情報を[[PLO]]がパレスチナ系アメリカ人の書いた『イスラエルの核爆弾』と言う書籍によりイラク政府に売り込んだ事が、当時のフセイン大統領に核兵器開発を行うきっかけを与えた。<ref name="Raid on the Sun(ja) P37-39">[[ロジャー・クレイア]] 『イラク原子炉攻撃!』 [[高澤市郎]]訳、[[並木書房]]、2007年、ISBN 4890632158、37-39頁</ref>
 
1960年代始め、ソビエトから5Mwクラス[[原子炉]]を導入したが、この[[原子炉]]にはフセイン大統領が必要としていた兵器グレードの[[プルトニウム]]製造する能力は無かった上、不要な機材を含めたトン当たり幾ら方式の金額算定や、専門知識をもたず作業も行わない[[窓際族]]的な人員も含めた給料の請求、原子炉運用に必要なメンテナンスは行わないといった技術を持たない衛星国相手の不誠実な取引を行った。この時期の具体的な成果の有ったイラク原子力エネルギー機構の仕事と言える物は、フセインの食事に使用される食材の毒味であった。<ref name="Raid on the Sun(ja) P49">[[ロジャー・クレイア]] 『イラク原子炉攻撃!』 [[高澤市郎]]訳、[[並木書房]]、2007年、ISBN 4890632158、49頁</ref>
イラクは[[1970年代]]から核技術研究を独自に行なっていたが、[[原子炉]]を建設するほどの工業力がなかったため、[[フランス]]から[[核燃料]]と技術者の提供を受け7万キロワットの原子力発電所を建設していた。
 
この原子炉(オシリス級原子炉、フランスはオシリスとイラクを合成した「[[オシラク]]」の名で呼び、イラクは[[バアス党]]が政権を奪取した月の名である「タムーズ1」と呼んだ)は1982年7月稼動予定であったが、この原子炉を軍事転用し核兵器に必要[[濃縮ウラン]]生産することも可能であった。そのためイスラエルはイラクが核開発することに非常に強い危機感を持っていた。
 
== イスラエルの暗躍 ==
当初、イスラエルは外交手段によって事態を収拾しようと、フランス政府に技術供与を取りやめるように要請するが、
当時のフランス・[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン|ジスカール・デスタン]]大統領は平和利用のためとしった。そのため、[[イスラエル諜報特務庁]](モサド)と国防軍の情報機関である[[イスラエル参謀本部諜報局]](アマーン)を使い、以下のような阻止工作をしたといわれている。
 
[[1979年]]4月、フランスのラ・セーヌ・シュルメール港の倉庫に格納されていたイラク向け原子炉格納容器爆破された(犯行声明はフランスの過激派名義だった)。つぎに[[1980年]]6月には、イラクの核開発の責任者がフランスのホテルで撲殺され、8月には原子炉開発の契約企業のローマ事務所と重役の私邸が爆破され(イスラム革命保障委員会から犯行声明があった)、イラクの核開発に関係するフランスと[[イタリア]]の科学者宛にイラク差出の脅迫状が送付された。しかし、それらの妨害活動にくじけることなく原子力発電所の完成が近づいたため、イスラエルはあえて国際法に抵触する危険がある武力攻撃を決意した
 
作戦上の最大の障害として、当時[[イスラエル航空宇宙軍|イスラエル空軍]]の主力戦闘攻撃機であった[[F-4 (戦闘機)|F-4]]では必要な航続距離が得られいという問題があった。しかし折しも、アメリカから[[イラン革命]]によりキャンセルされた最新鋭[[F-16 (戦闘機)|F-16戦闘機]]を購入する事となり、作戦実行可能となった。
 
== バビロン作戦 ==
1981年6月7日午後4時、2000ポンド(908kg)の[[Mk 84 (爆弾)|Mk-84爆弾]]を2発ずつ搭載したイスラエル空軍[[第110飛行隊 (イスラエル空軍)|第110飛行隊]]、[[第117飛行隊 (イスラエル空軍)|第117飛行隊]]所属のF-16戦闘機8機が、護衛の[[第133飛行隊 (イスラエル空軍)|第133飛行隊]]所属の[[F-15 (戦闘機)|F-15戦闘機]]6機を伴って[[シナイ半島]]東部にあるエツィオン空軍基地から飛び立った。戦闘機部隊は[[ヨルダン]]及び[[サウジアラビア]]を[[領空侵犯]]したうえでイラク領内に侵入した。この飛行ルートは事前に対空砲とレーダーの位置を[[イスラエル諜報特務庁|モサド]]の諜報員によって調べられたイラク防空網の死角であった。そして午後5時30分前に原子炉付近に到達し、イスラエル空軍機は16発の爆弾を投下し原子炉を完全に破壊した
この際投下した爆弾16発のうち、14発が原子炉を直撃した。うち1発は原子炉を直撃するものの不発(時限信管が作動しなかった模様)、また別の1発は隣接施設内に落下し爆発した
この攻撃に使用された爆弾は、一切の誘導装置を備えない自由落下型であった。この攻撃により原子炉を警備していたイラク軍兵士10名とフランス人技術者1名が犠牲になった。戦闘機部隊は危惧されていたイラク空軍機の迎撃にあうことなく、往路と同じルートで全機が帰投した。
 
イラクは当初どこから攻撃を受けたか分からず、交戦中のイランからの攻撃も疑ったが、翌日イスラエル政府が空爆を認めたうえで、イスラエル国民の安全確保のためイラクが核武装する前に先制攻撃したものでありまた原子炉稼動後に攻撃したのでは「[[死の灰]]」を広い範囲に降らせる危険があったため実行したと言明した
 
この作戦は、イスラエルがイラクへの安保理武力制裁決議を経ないで行ったために、欧州を中心にイスラエルへの非難が沸き起こった。
 
== その後 ==
イスラエルはこの攻撃を中東地域の核拡散を防ぐものとし正当化していたが、[[1986年]]には同国の元核技術者[[モルデハイ・ヴァヌヌ]]により、当のイスラエル自身が1960年代よりフランスの協力により核開発を行い、既に多くの核兵器保有していた事が暴露された。
 
[[湾岸戦争]]では米空軍による[[スカッド]]狩りも、[[ミサイル防衛]]システムによる迎撃も失敗してエルサレムはイラクの短距離弾道弾スカッドを被弾した。しかし、イスラエルはオシラク核施設を空爆してイラクの原爆生産を阻止してあったので、イラクの武器庫には核弾頭がなく、エルサレムは通常弾頭スカッドを被弾しただけだった。そのためエルサレムの被害は小規模で済んだ。
 
この事件を題材にして作られたフィクションのスパイ小説としてはイギリスの[[A・J・クィネル]] による『スナップ・ショット』 (Snap Shot)が1982年に出版された。日本では1984年に出版されNHK-FMでラジオドラマとして放送された。
 
新鋭機F-16のパイロットの一人に、経験豊富なパイロットであった[[イラン・ラモーン]]がいた。のちに彼はイスラエル初の宇宙飛行士として[[2003年]]1月に[[コロンビア (オービタ)|スペースシャトル・コロンビア]]に乗り組むが、[[コロンビア号空中分解事故]]で落命した。
 
オシラク原子炉はその後も爆撃当時のままの姿で残っていたが、[[湾岸戦争]]でアメリカ空軍の攻撃を受け完全破壊された。
 
この爆撃作戦はイスラエル国内では政権党[[リクード]]にプラスの方向で作用、3週間後の選挙で[[メナヘム・ベギン]]率いるリクードは大勝した
 
一方、イラクは1982年の爆撃一周年にイスラエルを非難する[[切手]]4種を発行している。そこでは「平和利用」であったと主張していた。
 
== 関連書籍 ==