「ジョージ6世 (イギリス王)」の版間の差分

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=== 統治初期 ===
[[ファイル:Darlington God save the king..JPG|thumb|left|ジョージ6世の国王戴冠を祝って飾り付けられたダーリントン市役所(1937年)。屋根に「神よ国王を護り賜え (God Save the King)」の文字が見える]]
アルバートは統治名 ([[尊号]]) にジョージ6世を選んだ。これは父王ジョージ5世の方針を引き継ぐことと、エドワード8世の退位騒動で揺らいだ王室への信頼を回復するという、アルバートの意思の表れだった<ref>Howarth, p. 66; Judd, p. 141</ref>。新たな国王ジョージ6世が最初に直面した問題は、前国王である兄エドワードの地位や称号の処遇だった。退位宣言が発表されたときには「エドワード王子殿下(His Royal Highness Prince Edward)」とされていたが<ref>Judd, p. 144; Sinclair, p. 224</ref>、ジョージ6世は、王位を放棄したエドワードが「'''王族'''の殿下」を意味する「'''Royal''' Highness」などの王族を意味する称号を名乗る資格を失ったのではないかと思っていた<ref>Howarth, p. 143</ref>。最終的な妥協案として、エドワードには「ウィンザー公爵殿下 (His Royal Highness The Duke of Windsor)」の称号が贈られたが、このウィンザー公爵位の規定では、エドワードの妻、子供が王族を意味する称号を名乗ることは許されていなかった。また、ジョージ6世はエドワードから王室伝来の邸宅も買い戻さなくてはならなかった。[[バルモラル城]]やサンドリンガム・ハウス ([[:en:Sandringham House]]) などは、エドワードが私有財産として相続したものであり、ジョージ6世が国王になったとはいえ、自動的に相続権が移転する性質のものではなかったためである<ref>Ziegler, p. 326</ref>。ジョージ6世が即位した3日後の1936年12月14日は、自身の41歳の誕生日だった。この日ジョージ6世は、妻エリザベスに[[王妃]]の称号と[[ガーター勲章]]を贈っている<ref>Bradford, p. 223</ref>
 
退位宣言が発表されたときには「エドワード王子殿下(His Royal Highness Prince Edward)」とされていたが<ref>Judd, p. 144; Sinclair, p. 224</ref>、ジョージ6世は、王位を放棄したエドワードが「'''王族'''の殿下」を意味する「'''Royal''' Highness」などの王族を意味する称号を名乗る資格を失ったのではないかと思っていた<ref>Howarth, p. 143</ref>。最終的な妥協案として、エドワードには「ウィンザー公爵殿下 (His Royal Highness The Duke of Windsor)」の称号が贈られたが、このウィンザー公爵位の規定では、エドワードの妻、子供が王族を意味する称号を名乗ることは許されていなかった。
ジョージ6世の[[戴冠式]]は1937年5月12日に挙行された。この日はもともとエドワード8世の戴冠式が予定されていた日だった。この戴冠式には、未亡人となった王妃は以降の戴冠式には姿を現さないという慣例を破って、故ジョージ5世妃[[メアリー・オブ・テック|メアリー]]が、新王ジョージ6世の支持を表明するために出席している<ref>Bradford, p. 214</ref>。日本からは[[秩父宮雍仁親王]]・[[雍仁親王妃勢津子|勢津子妃]]が[[昭和天皇]]の名代として参加し<ref>{{citation |last=平間 |first=洋一 |title=第二次世界大戦と日独伊三国同盟 海軍とコミンテルンの視点から |publisher=錦正社 |year=2007 |isbn=ISBN 978-4-7646-0320-2 |page=20}}</ref>、外国王室筆頭の扱いを受けるなど、イギリスは同じ君主国であり近年まで同盟を結んでいた日本に配慮を示した<ref>{{citation |last=平間 |first=洋一 |title=第二次世界大戦と日独伊三国同盟 海軍とコミンテルンの視点から |publisher=錦正社 |year=2007 |isbn=ISBN 978-4-7646-0320-2 |page=21}}</ref>。
 
また、ジョージ6世はエドワードから王室伝来の邸宅も買い戻さなくてはならなかった。[[バルモラル城]]やサンドリンガム・ハウス ([[:en:Sandringham House]]) などは、エドワードが私有財産として相続したものであり、ジョージ6世が国王になったとはいえ、自動的に相続権が移転する性質のものではなかったためである<ref>Ziegler, p. 326</ref>。ジョージ6世が即位した3日後の1936年12月14日は、自身の41歳の誕生日だった。この日ジョージ6世は、妻エリザベスに[[王妃]]の称号と[[ガーター勲章]]を贈っている<ref>Bradford, p. 223</ref>。
[[5月20日]]に行われた[[ジョージ6世戴冠記念観艦式]]には、日本([[大日本帝国海軍]])から[[重巡洋艦]]「[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]]」が参加した。また、ジョージ5世が即位したときには挙行された、[[イギリス領インド帝国]][[デリー]]での新国王の公式謁見は、インド政府の費用負担が大きいとして行われなかった<ref>Vickers, p. 175</ref>。当時のインドでは独立運動が活発化しており、国王夫妻がインドを訪問してもほとんど歓迎されない可能性が高かったため、独立推進派からもインドでの公式謁見中止は歓迎された<ref>Bradford, p. 209</ref>。当時の国際情勢は[[第二次世界大戦]]直前の緊張したもので、インドにとってもイギリスとの長期にわたる関係悪化は望むところではなかったのである。ただし、国王夫妻のフランスと北米への外遊は実施された。どちらの外遊も、戦争に向けた戦略的優位性を確立するための公式訪問だった<ref>Bradford, pp. 269, 281</ref>。
 
ジョージ6世の[[戴冠式]]は1937年5月12日に挙行された。この日はもともとエドワード8世の戴冠式が予定されていた日だった。この戴冠式には、未亡人となった王妃は以降の戴冠式には姿を現さないという慣例を破って、故ジョージ5世妃[[メアリー・オブ・テック|メアリー]]が、新王ジョージ6世の支持を表明するために出席している<ref>Bradford, p. 214</ref>。日本からは[[秩父宮雍仁親王]][[雍仁親王妃勢津子|勢津子妃]]が[[昭和天皇]]の名代として参加し<ref>{{citation |last=平間 |first=洋一 |title=第二次世界大戦と日独伊三国同盟 海軍とコミンテルンの視点から |publisher=錦正社 |year=2007 |isbn=ISBN 978-4-7646-0320-2 |page=20}}</ref>、外国王室筆頭の扱いを受けるなど、イギリスは同じ君主国であり近年まで同盟を結んでいながら、ドイツとの関係を深めつつあった日本に配慮を示した<ref>{{citation |last=平間 |first=洋一 |title=第二次世界大戦と日独伊三国同盟 海軍とコミンテルンの視点から |publisher=錦正社 |year=2007 |isbn=ISBN 978-4-7646-0320-2 |page=21}}</ref>。[[5月20日]]に行われた[[ジョージ6世戴冠記念観艦式]]には、日本([[大日本帝国海軍]])から[[重巡洋艦]]「[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]]」が参加した
ヨーロッパで高まる戦争への気運が、ジョージ6世の統治初期に大きな影響を与えた。憲法上、国王たるジョージ6世には、首相[[ネヴィル・チェンバレン]]が推進する[[アドルフ・ヒトラー]]への[[宥和政策]]に協力する義務があった<ref name="matthew"/><ref>Sinclair, p. 230</ref>。1938年の[[ミュンヘン会談]]で、ヒトラーの要求をほぼ全面的に認める協定を締結したチェンバレンを迎えた国王夫妻は、チェンバレンに[[バッキンガム宮殿]]のバルコニーで国王夫妻とともに、国民からの歓迎を受ける特権を与えた。国王と政治家の友好関係を大衆の前で見せるのは極めて例外的であり、王宮のバルコニーからの謁見も伝統的に王族のみに許される行為だった<ref name="matthew" />。イギリス国民からは広く歓迎された、チェンバレンの対ヒトラー宥和政策だったが、[[庶民院 (イギリス)|イギリス庶民院]]ではこの政策に反対する意見もあった。歴史家ジョン・グリッグ ([[:en:John Grigg]]) は、この時期のジョージ6世の政治的行動が「ここ数世紀のイギリス国王の中で、もっとも憲法に違反している」としている<ref>Hitchens, Christopher (1 April 2002), [http://www.guardian.co.uk/uk/2002/apr/01/queenmother.monarchy9 "Mourning will be brief"], ''The Guardian'', retrieved 1 May 2009</ref>。
 
[[5月20日]]に行われた[[ジョージ6世戴冠記念観艦式]]には、日本([[大日本帝国海軍]])から[[重巡洋艦]]「[[足柄 (重巡洋艦)|足柄]]」が参加した。また、ジョージ5世が即位したときには挙行された、[[イギリス領インド帝国]][[デリー]]での新国王の公式謁見は、インドの植民地政府の費用負担が大きいとして行われなかった<ref>Vickers, p. 175</ref>。当時のインドでは、[[スバス・チャンドラ・ボース]]や[[マハトマ・ガンジー]]らによる独立運動が活発化しており、国王夫妻がインドを訪問してもほとんど歓迎されない可能性が高かったため、独立推進派からもインドでの公式謁見中止は歓迎された<ref>Bradford, p. 209</ref>。当時の国際情勢は[[第二次世界大戦]]直前の緊張したもので、インドにとってもイギリスとの長期にわたる関係悪化は望むところではなかったのである。ただし、国王夫妻のフランスと北米への外遊は実施された。どちらの外遊も、戦争に向けた戦略的優位性を確立するための公式訪問だった<ref>Bradford, pp. 269, 281</ref>。
 
[[ファイル:MunichAgreement.jpg|thumb|right|ミュンヘン会談からの帰国後に会見するチェンバレン]]
ヨーロッパで高まる戦争への気運が、ジョージ6世の統治初期に大きな影響を与えた。憲法上、国王たるジョージ6世には、首相[[ネヴィル・チェンバレン]]が推進する[[アドルフ・ヒトラー]]への[[宥和政策]]に協力する義務があった<ref name="matthew"/><ref>Sinclair, p. 230</ref>。1938年の[[ミュンヘン会談]]で、ヒトラーの要求をほぼ全面的に認める協定を締結したチェンバレンを迎えた国王夫妻は、チェンバレンに[[バッキンガム宮殿]]のバルコニーで国王夫妻とともに、国民からの歓迎を受ける特権を与えた。国王と政治家の友好関係を大衆の前で見せるのは極めて例外的であり、王宮のバルコニーからの謁見も伝統的に王族のみに許される行為だった<ref name="matthew" />。イギリス国民からは広く歓迎された、チェンバレンの対ヒトラー宥和政策だったが、[[庶民院 (イギリス)|イギリス庶民院]]ではこの政策に反対する意見もあった。歴史家ジョン・グリッグ ([[:en:John Grigg]]) は、この時期のジョージ6世の政治的行動が「ここ数世紀のイギリス国王の中で、もっとも憲法に違反している」としている<ref>Hitchens, Christopher (1 April 2002), [http://www.guardian.co.uk/uk/2002/apr/01/queenmother.monarchy9 "Mourning will be brief"], ''The Guardian'', retrieved 1 May 2009</ref>。
 
当時のイギリス国民からは広く歓迎された、チェンバレンの対ヒトラー宥和政策だったが、[[庶民院 (イギリス)|イギリス庶民院]]ではこの政策に反対する意見もあった。歴史家ジョン・グリッグ ([[:en:John Grigg]]) は、この時期のジョージ6世の政治的行動が「ここ数世紀のイギリス国王の中で、もっとも憲法に違反している」としている<ref>Hitchens, Christopher (1 April 2002), [http://www.guardian.co.uk/uk/2002/apr/01/queenmother.monarchy9 "Mourning will be brief"], ''The Guardian'', retrieved 1 May 2009</ref>。
 
[[ファイル:RoyalVisitSenate.jpg|thumb|right|1939年5月19日に、カナダ議会で法案を裁可 ([[:en:Royal Assent]]) するジョージ6世。右に座っているのは王妃エリザベス]]
1939年5月から6月に、国王夫妻は、カナダと[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を公式訪問した。国王夫妻の随伴として、[[オタワ]]からカナダ首相[[ウィリアム・ライアン・マッケンジー・キング]]が同行し<ref>{{citation| url=http://www.collectionscanada.gc.ca/king/023011-1070.06-e.html| last=Library and Archives Canada| title=Biography and People > A Real Companion and Friend > Behind the Diary > Politics, Themes, and Events from King's Life > The Royal Tour of 1939| publisher=Queen's Printer for Canada| accessdate=12 December 2009| archiveurl=https://web.archive.org/web/20091030064730/http://www.collectionscanada.gc.ca/king/023011-1070.06-e.html| archivedate=2009年10月30日| deadurldate=2017年9月}}</ref>、北米各地でイギリス国王、王妃が[[カナダ国王]]でもあることを紹介する役割を果たした<ref>{{citation| last=Bousfield| first=Arthur| coauthors=Toffoli, Garry| title=Royal Spring: The Royal Tour of 1939 and the Queen Mother in Canada| publisher=Dundurn Press| year=1989| location=Toronto| pages=60, 66| url=http://books.google.com/?id=1Go5p_CN8UQC&printsec=frontcover&q=| isbn=1-55002-065-X}}</ref><ref>{{citation| last=Lanctot| first=Gustave| title=Royal Tour of King George VI and Queen Elizabeth in Canada and the United States of America 1939| publisher=E.P. Taylor Foundation| year=1964| location=Toronto}}</ref>。ジョージ6世は、ヨーク公アルバートの時代にカナダを訪問したことがあるが、カナダ国王として北米を訪問した最初のイギリス国王でもある。

[[カナダの総督|カナダ総督]][[ジョン・バカン]] (John Buchan, 1st Baron Tweedsmuir) とカナダ首相マッケンジー・キングは共に、今回のイギリス国王のカナダ訪問が、1931年に発布された[[ウェストミンスター憲章]]の精神の実証となることを望んでいた。ウェストミンスター憲章は、各イギリス自治領に完全な自治権を与え、イギリス国王をそれぞれの国が自国の国王として戴くという憲章である。ジョージ6世のオタワでの滞在先は総督公邸のリドー・ホール ([[:en:Rideau Hall]]) で、この場所でジョージ6世は新たにカナダに赴任するアメリカ公使[[ダニエル・カルフーン・ローパー]]の信任状を受領し、認可している。イギリス国王夫妻のカナダ訪問の公式記録者であるカナダの歴史家ギュスターヴ・ランクト ([[:en:Gustave Lanctot]]) は、イギリス国王のカナダ訪問の様子を「国王陛下ご夫妻がカナダでの滞在先(リドー・ホール)に入られたときに、ウェストミンスター憲章が真の意味で完全なものになった。カナダ国王が自国へと帰還されたのである」としている<ref>{{citation| last=Galbraith| first=William| title=Fiftieth Anniversary of the 1939 Royal Visit| journal=Canadian Parliamentary Review| volume=12| issue=3| pages=7–9| publisher=Commonwealth Parliamentary Association| location=Ottawa| year=1989| url=http://www2.parl.gc.ca/Sites/LOP/Infoparl/12/3/12n3_89e.pdf| accessdate=14 December 2009| format=PDF| archiveurl=https://www.webcitation.org/5lMOJu1h1?url=http://www2.parl.gc.ca/Sites/LOP/Infoparl/12/3/12n3_89e.pdf| archivedate=2009年11月17日| deadurldate=2017年9月}}</ref>。
 
このイギリス国王夫妻の北米訪問には、当時ヨーロッパで高まりつつあった諸国間の緊張のために、アメリカやカナダの民衆の間に現れつつあった強固な[[孤立主義|孤立主義者]]たちの態度を軟化させるという意義もあった。近いうちにヨーロッパで起こるであろう戦争に備えて、イギリスへの支援を要請するという政治的目的を主眼とした公式訪問ではあったが、ジョージ6世とエリザベスは北米の民衆から熱狂的な歓迎を受けている<ref>Judd, pp. 163–166; Rhodes James, pp. 154–168; Vickers, p. 187</ref>。
 
このイギリス国王夫妻の北米訪問には、当時ヨーロッパで高まりつつあった諸国間の緊張のために、北米の民衆の間に現れつつあった強固な[[孤立主義|孤立主義者]]たちの態度を軟化させるという意義もあった。近いうちにヨーロッパで起こるであろう戦争に備えて、イギリスへの支援を要請するという政治的目的を主眼とした公式訪問ではあったが、ジョージ6世とエリザベスは北米の民衆から熱狂的な歓迎を受けている<ref>Judd, pp. 163–166; Rhodes James, pp. 154–168; Vickers, p. 187</ref>。前国王エドワード8世に比べてジョージ6世は見劣りがするのではないかという噂もあったが、そのような懸念は見事に払拭された<ref>Bradford, pp. 298–299</ref>。ジョージ6世とエリザベスはカナダからアメリカに向かい、1939年の[[ニューヨーク万国博覧会 (1939年)|ニューヨーク万国博覧会]]に出席した。アメリカでは大統領公邸の[[ホワイトハウス]]でアメリカ大統領[[フランクリン・ルーズヴェルト]]と会談し、ハイド・パーク ([[:en:Hyde Park, New York]]) にあったルーズヴェルトの私邸 ([[:en:Home of Franklin D. Roosevelt National Historic Site]]) を訪問している<ref>''The Times'' Monday, 12 June 1939 p. 12 col. A</ref>。アメリカ公式訪問を通じて、イギリス国王夫妻とアメリカ大統領ルーズヴェルトとの間に強い信頼関係が結ばれ、この友情が第二次世界大戦でのアメリカとイギリスの関係に大きな影響を及ぼした<ref>{{citation |last=Swift |first=Will |title=The Roosevelts and the Royals: Franklin and Eleanor, the King and Queen of England, and the Friendship that Changed History |publisher=John Wiley & Sons |year=2004}}</ref><ref>Judd, p. 189; Rhodes James, p. 344</ref>。
 
=== 第二次世界大戦 ===