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[[1904年]]、[[オデッサ市立管弦楽団]]でヴァイオリニストを務めながら指揮の勉強をし、同年にこのオーケストラを指揮して指揮者デビューした。これ以後は指揮に専念し、[[1905年]]から[[1907年]]まで[[リュブリャーナ・フィルハーモニー管弦楽団]]の指揮者を務めた。[[1908年]]からはスロヴェニア・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者となるが、その職務の合間を見ては、[[ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団]]の首席指揮者であったニキシュの許を訪ね、その指揮法や音楽理論を吸収していった。[[1912年]]から[[1915年]]までプルゼニュのオペラ指揮者を務めている。
 
ターリヒが[[チェコ・フィルハーモニー管弦楽団]](以下、チェコpoと略記)の指揮台に初めて登場したのは1908年の野外コンサートであった。[[1917年]]、[[1918年]]と相次いで指揮する機会を得、特に1918年10月30日の「[[ヨセフ・スク (作曲家)|スーク]]の夕べ」で大成功を収めた。この成功により、この年のうちにチェコpo・フィルの次席指揮者、翌[[1919年]]には同オーケストラの首席指揮者に就任した。ターリヒはチェコpo・フィルでの職務のかたわら、プラハ音楽院で教鞭を執り、[[1931年]]から[[1933年]]にはストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者を兼務しておりプラハを一時留守にしている。さらに[[1935年]]からは[[国民劇場 (プラハ) |プラハ国民劇場]]の音楽監督を務めるなど、多くの激務を抱える身となり、[[1941年]]にチェコpo・フィルでの地位を[[ラファエル・クーベリック]]に譲った。第二次大戦後はチェコ室内管弦楽団を創立し、また[[スロヴァキア・フィルハーモニー管弦楽団]]の首席指揮者を務めた。1961年、チェコの{{仮リンク|ベロウン|en|Beroun}}で死去した。
 
チェコpoを現在あるような国際的なオーケストラにまで高めたのはターリヒの功績であるといわれる。それまでヨーロッパの古い街には必ずある地方オーケストラの一つにすぎなかったチェコpo・フィルは、彼の薫陶を受けてその実力を高め、著名な指揮者や独奏者が客演するようになり、聴衆の耳目を惹くようになっていった。ターリヒが指揮するチェコpo・フィルの演奏する[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]を聴いた[[エフゲニー・ムラヴィンスキー]]はそのすばらしさに感嘆し、その後ドヴォルザークを演奏しなかったという。ターリヒの演奏は[[スラヴ]]風の野趣を残しながらも、ニキシュ流の明朗さと気品をもっていた。ドヴォルザーク、ヤナーチェクや[[ベドルジハ・スメタナ|スメタナ]]の演奏の録音が残されており、耳にすることができる。
 
教育者としてもターリヒは優れた人材を多く輩出しており、主な弟子に[[カレル・アンチェル]]、[[ヴァーツラフ・ノイマン]]、[[チャールズ・マッケラス]]らがいる。