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{{redirect|山岳部|地形|山地|アメリカ合衆国の地方|アメリカ合衆国山岳部}}
[[画像ファイル:Frères Bisson - 1862 - La crevasse (Départ).jpg|thumbnailthumb|200px|クレバスを行く登山者(1862年)]]
[[画像ファイル:Maki Yuko.JPG|thumbnail|200px|{{Flagicon|JPN}} [[槇有恒]]
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<small>[[アイガー]]東山稜の初登攀者。</small>]]
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=== ヨーロッパ ===
[[画像ファイル:Hannibal3.jpg|thumb|left|180px|[[アルプス山脈]]を越えるハンニバルの軍]]
[[ハンニバル]]は[[紀元前218年|前218年]]に第二次ポエニ戦争の時、6万人の兵と37頭の象とともにピレネーやアルプスの山脈を越えたとされている<ref name="sekaip" />。
[[125年]]にローマ帝国の[[ハドリアヌス]]帝は朝日を見るために[[エトナ火山]]に登った<ref>[[ローマ皇帝群像|ヒストリア・アウグスタ]] ハドリアヌス 13</ref>。
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[[ルネサンス]]の始まりとともに趣味やスポーツとしての登山が行われるようになった。また、測量目的の登山も行われるようになり、フランス王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]が[[1492年]]に{{仮リンク|エギーユ山|fr|Mont Aiguille}}<!--もしくはエギュイーユ-->の登頂を命じたのは、この範疇に入る。[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]はヴァル・セシア郊外の雪山に登り、様々な実験や観察を行った。[[16世紀]]には[[スイス]]の[[チューリッヒ]]を中心に登山を賞賛する動きがあり、[[コンラート・ゲスナー|コンラッド・ゲスナー]]とジョシアス・シムラー([[:en:Josias Simmler|Josias Simmler]])が度々登山を行っていたことが記録されている。{{要出典|date=2016年6月|}}。2人はロープとピッケルを使ったが、一般には広まらなかった。[[17世紀]]のヨーロッパには登山の記録がまったく残されていない。
 
[[ファイル:00 Chamonix-Mont-Blanc - M G Paccard.jpg|thumb|200px|モンブランを見つめる[[:en:Michel-Gabriel Paccard|M.G.パカール]]の像]]
[[ファイル:Chamonix 2007 100 0022.JPG|thumb|right|140px|[[:en:Jacques Balmat|J.バルマ]]と[[オラス=ベネディクト・ド・ソシュール|H.B.deソシュール]]の像]]
18世紀後半、アルプス最高峰の[[モンブラン]]登頂が達成され、近代的登山の幕開けとなった<ref name="sekaip" />。1760年のこと、自然科学者[[オラス=ベネディクト・ド・ソシュール]]が[[シャモニー=モン=ブラン|シャモニー]]を訪れ、モンブラン初登頂を成し遂げた者に賞金を出すと宣言し、それに応える形で1786年にM・G・パカール([[:en:Michel-Gabriel Paccard|Michel-Gabriel Paccard]])およびJ・バルマ([[:en:Jacques Balmat|''Jacques Balmat'']] )が登頂に成功し<ref name="sekaip" />、翌年にはソシュール自身も登頂に成功した<ref name="sekaip" />。
 
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=== 日本 ===
[[ファイル:Akadake3.JPG|thumb|230px|[[赤岳 (八ヶ岳山系)|赤岳]]山頂の登山者]]
[[日本]]においては、[[717年]]に[[泰澄]]和尚が開山した[[白山]]、[[701年]]に[[越中国]](富山県)[[国司]]の息子[[佐伯有頼|有頼]]が開山した[[立山]]など、宗教にまつわり山を開いたとする開山縁起が残っている<ref name="wp5">『北アルプス この百年』 pp.11-72</ref><ref name="wp6">『北アルプス博物誌 I 登山・民俗』 pp.260-273 日本の登山小史 山崎安治</ref>。[[都良香]]の富士山記に、富士山頂の様子の記述がある<ref name="wp6">『北アルプス博物誌 I 登山・民俗』 pp.260-273 日本の登山小史 山崎安治</ref>。[[鎌倉時代]](1185年頃 - 1333年)・[[室町時代]](1336年 - 1573年)以降、山に関する記録が減っていくが、何らかの理由で記録を残さなかったのか、実際に人が山に入らなくなったのかは不明である<ref name="wp5">『北アルプス この百年』 pp.11-72</ref>。
 
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[[江戸時代|江戸]][[幕末]]、[[飛騨山脈|北アルプス]]麓にある入四ヵ村で年に薪五千間、板子八万梃を伐採しに[[大天井岳|二ノ俣]]あたりまで入っていたなど、多くは記録に残っていないが、歴史を通じて、[[杣]]人や[[狩猟]]や[[鉱山|採鉱]]などの山[[仕事]]でたくさんの人が山に入っていたと考えられる<ref name="wp5">『北アルプス この百年』 pp.11-72</ref>。
[[ファイル:Fujisan Hongu Sengen okunomiya.jpg|thumb|230px|富士山頂の登山者(富士宮口頂上)]]
江戸幕末以降、複数の[[欧米]]人が[[富士山]]に登った。[[1860年]](万延元年)7月、[[ラザフォード・オールコック|オールコック]]が[[富士山村山口登山道]]から登り登頂している。[[1867年]](慶応3年)10月には[[ハリー・パークス|パークス]]夫人が、[[1868年]](明治元年)7月に[[アーネスト・サトウ|サトウ]]が登っている<ref name="wp6">『北アルプス博物誌 I 登山・民俗』 pp.260-273 日本の登山小史 山崎安治</ref>。
 
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[[陸地測量部]]によって、[[1907年]](明治40年)までに、[[日本アルプス]]の主峰のほとんどに、[[三角点]]が設置された<ref name="wp6">『北アルプス博物誌 I 登山・民俗』 pp.260-273 日本の登山小史 山崎安治</ref>。
 
探検時代の後<ref>『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 p.16、18</ref>、明治末から[[大正]]にかけて、日本アルプスへ登山する人たちが増え始め<ref name="wp11">『北アルプス この百年』 pp.74-125、170-187</ref>、大正期に[[大衆]]化した<ref group="*">『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 p.18、25。本書は、近代登山以降という尺度で見た場合という観点からとして、この大正期から昭和初期、戦争によって下火になるまでの間のブームを、第1次登山ブームと呼んでいる。</ref>。[[1915年]](大正4年)の[[上高地]] [[大正池 (松本市)|大正池]]の出現や、皇族の登山などが、人々を山へ誘った<ref group="*">『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 p.18、19。[[東久邇宮稔彦王]]や[[秩父宮雍仁親王]]が登山に親しんだ。</ref>。
 
これを受けて、[[1907年]](明治40年)に[[松沢貞逸]]が白馬岳山頂近くに橋頭堡を築いて営業を開始したのに始まり、[[1916年]](大正5年)に松沢貞逸が白馬尻小屋を、[[1918年]](大正7年)に穂苅三寿雄がアルプス旅館(槍沢小屋)を、[[1921年]](大正10年)に赤沼千尋が燕ノ小屋(燕山荘)を、百瀬慎太郎が[[1925年]](大正14年)に大沢小屋、[[1930年]](昭和5年)に針ノ木小屋の営業を開始するなど、山中で登山者が休憩・宿泊する山小屋の営業が始まった<ref name="wp11">『北アルプス この百年』 pp.74-125、170-187</ref>。
 
また、[[1917年]](大正6年)の[[百瀬慎太郎]]による大町登山案内者組合結成をはじめ、[[1918年]](大正7年)の赤沼千尋の有明登山案内者組合、[[1919年]](大正8年)の松沢貞逸の四ツ谷(白馬)登山案内者組合、[[1922年]](大正11年)の奥原英男による島々口登山案内者組合結成など、山案内人(山岳ガイド)の利用料金および利用者と案内人の間のルールの明示・統一が試みられた<ref name="wp11">『北アルプス この百年』 pp.74-125、170-187</ref><ref group="*">『北アルプス この百年』 pp.178-180。1925年(大正14年)長野県制定の登山者休泊所及案内者取締規則により山案内人の公的な資格認定が始まり、その流れは1953年(昭和28年)の長野県観光案内業条例に引き継がれた。この条例の資格を受けた者は、2001年(平成13年)は579人。</ref>。
 
[[1921年]](大正10年)の[[槇有恒]]の[[アイガー]]東山稜登攀をきっかけとして、大正末期に[[アルピニズム]]の時代に入った。「先鋭的な登攀」が実践され、「岩と雪の時代」「バリエーションの時代」と呼ばれた<ref>『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 p.19</ref>。大学や高校の山岳部が、より困難なルートの制覇を目指して山を登った<ref>『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 p.22、24</ref>。
 
[[1937年]](昭和12年)に始まる[[日中戦争]]、[[1938年]](昭和13年)に制定される[[国家総動員法]]などの時代情勢により、登山ブームは下火になる<ref group="*">『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 p.25。登山者は[[非国民]]と呼ばれるなどの[[時代精神|時代情勢]]になった。</ref>。
 
[[1945年]](昭和20年)の[[第二次世界大戦]]終了後、大学・高校の山岳部の活動が再開された<ref>『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.25-26</ref>。
 
==== 日本隊のマナスル初登頂の影響 ====
1950年代、[[ヒマラヤ山脈|ヒマラヤ]]で、[[1950年]](昭和25年)の[[アンナプルナ]]、[[1953年]](昭和28年)の[[エベレスト]]、[[1956年]](昭和31年)の[[マナスル]]の初登頂など、8000メートル峰(14座ある)の初登頂ラッシュ<ref>『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.29-30。</ref><ref group="注釈*">アンナプルナはフランス隊による「人類初」の8000メートル峰登頂、エベレストはイギリス隊のエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイによる世界最高峰初登頂、マナスルの初登頂は[[槇有恒]]率いる日本山岳会隊の[[今西壽雄]]とシェルパのギャルツェン・ノルブによるもの。</ref>が続き、これを受け再び登山ブームが起きた。このブームの特徴は、大学や高校の山岳部に代わって、社会人山岳会の活動が活発になったことである<ref>『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 p.30</ref>。この時期、[[1955年]](昭和30年)有名な[[ナイロンザイル事件]]が起きた<ref>『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.29-32</ref>。また、[[谷川岳]]では、多発する遭難事故を受けて、群馬県が[[1966年]](昭和41年)に[[登山条例|群馬県谷川岳遭難防止条例]]を制定した<ref group="*">『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 p.32-35。谷川岳の遭難死者数は[[2008年]](平成20年)までに792人で、本書によれば、「世界でいちばん遭難死者が多い山」として[[ギネス世界記録]]に認定されているという。</ref>。[[1971年]](昭和46年)、海外で「先鋭的な登攀」を行ってきた人達が(社)日本アルパイン・ガイド協会を設立し、登山のガイドや山岳ガイドの養成、資格認定などを行い始めた<ref>『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.236-238</ref>。[[1960年代]] - [[1970年代]]、山岳部や山岳会が「先鋭的な登攀」を続ける一方で、一般の人々が[[ハイキング]]から縦走登山、[[ロッククライミング|岩登り]]まで、好みと能力にあわせて広く楽しむようになった<ref>『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 p.39</ref>。<ref group="*">『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 p.29、30、39。本書は、近代登山以降という尺度で見た場合という観点からとして、このブームを第2次登山ブームと呼んでいる。p.18によれば、一般的には、このブームを第1次登山ブームと呼ぶ場合が多いという。</ref>
 
1980年代、山岳部や山岳会が衰退し始め、また、登山者に占める[[中年|中高年]]者の割合が増え始めた。若い世代が山登りを[[3K]]というイメージで捉えて敬遠するようになり、育児が一段落した人たちが山登りを趣味とし始め、仕事をリタイアした世代が若い頃に登った山に戻り始めたことが理由であると考えられる。これに[[健康ブーム|健康志向]]と[[日本百名山]]ブームが輪をかけ、[[2010年]]現在に至っている。このブームで、ツアー登山が盛んになった<ref group="*">『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.224-227。「旅行会社のパック旅行のような」(p.225)形態のツアー登山の先駆けは、1970年代末頃と考えられる。</ref>。このブームの時代、[[1990年]](平成2年)、各地に設立された山岳ガイド団体が日本山岳ガイド連盟を設立し、ガイド資格の発給を行うようになった。[[2003年]](平成15年)、日本アルパイン・ガイド協会が日本山岳ガイド連盟を合併して(社)日本山岳ガイド協会が発足、日本全国統一基準のガイド資格が生まれた<ref group="*">『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.236-238。[[2007年]](平成19年)日本アルパイン・ガイド協会が日本山岳ガイド協会を脱会、[[2010年]](平成22年)1月現在、山岳ガイドの資格認定を行う全国的な団体は2団体となっている。</ref>。また2010年今日、また若者が登山に戻りつつある<!--- 山ガールなど? --->。<ref group="*">『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.50-53。本書は、近代登山以降という尺度で見た場合という観点からとして、ここから続くブームを第3次登山ブームと呼んでいる。p.52 では、このブームの始期は、1980年代後半から1990年代初頭と認識するのが妥当ではないかとしている。</ref>
 
== 登山の技術 ==
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参加メンバーは登山前に何度か会合を持ったり連絡をとりあったりしつつ、(1)目的地およびコースの選定 (2)グループ(パーティ)のリーダーとメンバーの決定 (3)各自の任務分担の決定 (4)予算の決定 (5)行動予定表、装備・食糧表、参加者名簿などの文書作成作業などを行う<ref name="sekaip" />。
 
上記の過程で、メンバー全員が目的の山について充分な知識を持ち、コースを熟知しているような状態になっていることが望ましい<ref name="sekaip" /><ref group="注釈*">リーダーのみが熟知しているだけでは事故や遭難のリスクが高まる</ref>。
 
パーティ(グループ)が大きい場合<ref group="注釈*">例えば4-5名程度を超えたら。どの程度の人数からサブリーダーを置くか、判断は様々</ref>は、リーダー以外にサブリーダーも決めておき、サブリーダーにメンバー指導などの仕事を分担させ、リーダーの過負荷を回避するとよい<ref name="sekaip" />。
 
また、トレーニングも登山直前ではなく、常日頃から行われていなければならない<ref name="sekaip" />。登山のトレーニングというのは、単なる筋力トレーニングというよりも、むしろ持久力を重視したものが行われていなければならないのであり<ref name="sekaip" />、健康の維持が重視されなければならない<ref name="sekaip" />。
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== 登山の装備 ==
[[ファイル:Mount Fuji from Mount Aino.jpg|thumb|230px|[[テント]]を担いで[[赤石山脈|南アルプス]]を縦走する登山者、間ノ岳山頂部、遠景は[[富士山]]]]
 
;基本
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;テント泊の場合
:基本装備に比べ、宿泊および食事に必要な道具と消耗品が増える。
* [[テント]]一式<ref group="注釈*">うっかりテントの[[ポール]](柱)をザックに入れ忘れて、山中で窮地に陥る登山者も多い。</ref>、[[寝袋]](シュラフ)。山用マットレス。
* 食事の道具。「[[ストーブ]]」と呼ばれるきわめて小型の登山用[[焜炉]]。[[コッヘル]]、[[カトラリー]]類([[スプーン]]・フォーク・箸 など)
* 食料。調理しやすく、比較的軽く、しかも体力の回復に役立つものが中心になる<ref group="注釈*">登山の楽しみのひとつでもあるので、若干量ならば嗜好品も持ってゆく登山者も多い。</ref>。[[缶詰]]、[[インスタント食品]]、[[レトルト食品]]、[[フリーズドライ]]食品、[[アルファ化米]]など調理が簡便な物も多用される。
 
;岩登り
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体温調節のために防寒具や雨合羽などを含む衣類(ウェア)を組み合わせて、体感温度や運動強度に適した服装にすることをレイヤリングという。<br />
登山では''できるだけ汗をかかず、なおかつ寒さを感じない程度の快適な服装''が求められる。肌寒い季節を例にとると、行動中は体が温まっているために薄手のフリースのみでも寒さを感じないこともあるが、休憩中は体が冷えるために他の防寒着を着込む必要がある。そのまま再び行動をすると汗をかき、反って体が冷えてしまうために防寒着を脱いでから行動をはじめなければならない。このように運動強度や気温、標高、天候の変化に合わせたレイヤリングを行う必要がある。<br />
着替えを持ち運ぶ必要があるため、特に脱ぎ着の機会が多い中間着では軽量かつ嵩張らないものが好まれる。[[パーカー|フード]]がついた上着は[[目出し帽]]の代わりとなるため、防寒性能が高いとして好まれる<ref group="注釈*">ただし、複数のウェアにフードがついている場合は反って邪魔になることもある。レイヤリングの中で1着だけフード付きのウェアにすると解決できる。</ref>。また、[[線ファスナー|ファスナー]]付きの服は、ファスナーを開放することで換気(ベンチレーション)を行うことができるため行動中の体温調節に便利である。
; ベースレイヤー
: [[Tシャツ]]や[[タイツ]]、[[レギンス]]、[[靴下]]などの下着や肌着のことを指す。上のレイヤーに汗を放出する役割を持ち、主に吸湿速乾性が求められる。ポリエステルのような[[化学繊維]]あるいは[[ウール]]が好まれる。保水性のある[[綿]]や[[レーヨン]]などは汗冷えを招くとして好まれない<ref>こどもと始める 家族で山登り: 安全に楽しむコツとテクニック p.76-77</ref>。
: また吸湿発熱素材のシャツは熱籠もりを起こしやすく、汗をかきやすくなってしまう。化学繊維であっても登山に向いているとは限らないことに留意するべきである。
: 特に吸湿速乾性に優れた肌着を'''アンダーウェア'''<ref group="注釈*">アパレルメーカーによってはスキンウェアまたはドライレイヤーと称する場合もある。いずれの場合でも汗をベースレイヤーに吸収させる役割を持つ。</ref>としてベースレイヤーと別に定義する場合もある。
; ミドルレイヤー(ミッドレイヤー)
: [[フランネル|フランネルシャツ]]やフリース、インサレーション(化学繊維、[[ダウンジャケット]])などの中間着を指す。主に保温性が求められ、気温が高い夏の低山では省略されることも多い。
: [[ベスト]]は体幹を保温し、腕から熱を逃がすとして春や秋の冷涼な時期によく使用される。
; アウターレイヤー
: [[ウインドブレーカー|ウインドシェル]]やソフトシェル、ハードシェル、レインウェア、ビレイパーカを指す。風雨によって体温を奪われることを防ぐため、防風性や防水透湿性が求められる<ref group="注釈*">冬山用には中綿やフリースを組み合わせてミッドレイヤーとしての役割も合わせ持つアウターもある。</ref>。
: 夏山では省略されがちなレイヤーであるが、日本のような多雨の地域ではレインウェアを持参すべきである。
; アクセサリー
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== 登山の目的 ==
=== レクリエーション ===
[[ファイル:Mt.Minami (Tanzawa) 02.jpg|thumb|230px|説明板と休憩場が設置された山頂部]]
[[レクリエーション]]としての登山の魅力は、ゆっくりと傾斜を歩くことによる[[有酸素運動]]や、[[新陳代謝]]の活性化、あるいは景観や自然の風景そのものを楽しむことにある。他にも、[[森林浴]](リラクゼーション効果)を楽しんだり、ともに登山をする人との交流、冬山を登る際には[[スキー]]滑走を目的とする場合もある。その目的は人により千差万別であり、それぞれの目的に合った登山の方法がある。また日本は山の国であって、[[散歩]]の延長で登れるような手ごろな山から、踏破に3-4日かかるものまでさまざまな山を歩くことができる。またひとつの山でも簡単なルートや難所の多いルートなどがあり、各々の力量や体力に合わせ登山を楽しめる場所が多い。日本においては、以前は登山というと[[ワンダーフォーゲル]]や山岳部のイメージが強く、厳しくつらく、特殊な世界と見られがちであった。しかし近年、登山靴や登山用具の発達・軽量化によって、中高年世代においても一種の登山ブームと言える現象が起きた。高齢者でも気軽に登山や[[トレッキング]]ができるように整備がなされ、体力にあった登山ルートで無理なく景色や運動を楽しむことができるようになってきている。
 
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=== スポーツ(山岳競技) ===
[[国民体育大会|国体]]には山岳競技があり([[国民体育大会山岳競技]])、縦走<ref group="注釈*">走ることではなく、[[尾根]]をつたい、いくつもの山頂を歩いてゆくこと(出典:大辞林「縦走」)</ref>競技と[[クライミング]]競技の2種目で構成される。縦走競技は、規定の重量を背負い、決められたコースを歩ききる時間を競う。クライミング競技は、人工壁を[[フリークライミング]]のスタイルで登り、到達高度を競う。
 
[[全国高等学校総合体育大会|高校総体]]も、競技形式の登山を実施している<ref group="注釈*">体力や装備、あるいは[[天気図]]に関する技能・知識や、[[高山植物]]、[[応急処置]]の方法、[[テント]]の設営技術等を、審査員がそれらの達成度を採点し、高校ごとに順位を決定する。隊列に遅れず登頂を目指すのも体力点として高得点ではあるが、他にも[[マナー]]や態度、知識や服装にも気を遣う必要がある。</ref><ref group="注釈*">3〜4日間をテントで過ごし、食事も寝床もすべて自分達で持ち歩き準備しなければならない登山競技は、インターハイにおいては最も厳しい競技のひとつである。</ref><ref group="注釈*">地方大会では実力の優劣をはっきりとさせるために重量規制があり、現段階では4人で60kgという規定がある。その60kg以外に、飲料として使用する[[水]]、ケガの治療などとして使用するために綺麗な水なども要するため、実質70kgにも75kgにも及ぶことなどが多々あるという。</ref>。
 
他にも岩を登る行為を競技として行う[[フリークライミング]]、山道を走ってその順位を争うトレイルランニングや[[スカイランニング]]等の競技がある。いずれも、山や岩場で行う競技であるため、安全や体調管理に十分に注意する必要がある。
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==== 時代別世代別状況 ====
<!--- 戦後の日本の情報のみ集まっているので、それ以外の時代、それ以外の国地域の情報がありましたら、追記および節名の調整などお願いします。 --->警察庁は、[[1961年]]から<ref name="kst">[http://www.j-cast.com/2010/06/09068419.html 中高年の山遭難増える 死者・不明は過去最多 J-CASTニュース 2010/6/ 9 18:04]</ref>毎年、日本国内の山岳遭難者数を取りまとめており、その統計資料によれば、年齢別の遭難者数の割合は、多い順から、[[1972年]]は20歳代が66.6%、10歳代が16.7%、30歳代が11.1%、40歳代が5.6%で50歳代以上は0%、[[1998年]]は50歳代が25.3%、60歳代が20.8%、40歳代が15.4%、70歳代が12%、20歳代が9.7%、30歳代が9.1%、10歳代が4.9%、80歳代が2.6%、90歳代および不明が0.1%、[[2008年]]は60歳代が29.8%、50歳代が19.1%、70歳代が17.5%、40歳代が10%、30歳代が7.8%、20歳代が6.4%、10歳代が4.6%、80歳代が4.2%、90歳代および不明が0.4%となっていて<ref group="*">『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.73 - 79</ref>、[[時代]]によって登山をする[[世代]]が異なっていることを示していると考えられる<ref>『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.70 - 73</ref>。
 
[[1990年]]前後からは中高年登山[[流行|ブーム]]が起こっていて<ref>『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 p.71</ref>、[[2008年]]に発生した山岳遭難者数1,933人のうち40歳以上の中高年者の数は1,567人、死者・行方不明者は281人中256人と過去最高を記録<ref>[http://www.npa.go.jp/safetylife/chiiki28/h20_sangakusounan.pdf 平成20年中における山岳遭難の概況(警察庁生活安全局地域課)]</ref>、[[2009年]]に発生した山岳遭難者数は2,085人、死者・行方不明者は317人とどちらも過去最高を更新、遭難者のうち55歳以上が6割を占め、とりわけ死者・行方不明者は9割を40歳以上が占めている<ref>docomo ich 2010年6月9日0時50分配信のニュース</ref><ref name="kst">[http://www.j-cast.com/2010/06/09068419.html 中高年の山遭難増える 死者・不明は過去最多 J-CASTニュース 2010/6/ 9 18:04]</ref>。2008年の数字では、遭難事故死者数は全体で253人、そのうち中高年者が234人となっていて、これらの数字からは、中高年者はアクシデントが起きたときに死に至る割合が高いということが読み取れる<ref>『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 pp.77-79</ref>。
 
朝日新聞の[[2010年]]の調べでは、2005年〜2009年の7、8月の[[富士山]]への登山中に救護された人のうち、体調急変により[[心肺停止]]になった人が14人おり、うち11人が45〜69歳である。[[高度]]のある山は、見た目でわかる以上に平地と[[環境]]が違うので、ふだんの[[生活]]では自覚されないで隠れている[[持病]]が悪化することが考えられるという。また、2009年夏、[[富士登山]]で[[高山病]]<ref group="注釈*">※メルクマニュアル日本語版[http://mmh.banyu.co.jp/mmhe2j/about/front/commitment.html 1]によれば、「高山病」の発症リスクは体力の有無とは関係なく、また、高齢者より若い人に多く発症する症候群である。[http://mmh.banyu.co.jp/mmhe2j/sec24/ch296/ch296a.html メルクマニュアル家庭版、296 章 高山病] 2010年6月27日閲覧.</ref>と診断された人が537人いるという。<ref>朝日新聞2010年6月26日 富士登山 体調急変ご注意(静岡県警・山梨県警への調査記事)。</ref>
 
=== 落石 ===
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; 登山道の荒廃
[[ファイル:Okura-one 070203.JPG|thumb|230px|[[丹沢山地]]・[[大倉尾根]]の大きくえぐられた登山道。前方は登山道が2本に分かれ、中央が島のようになっている。]]
: 近年の中高年の登山ブームにおけるオーバーユースによって登山道の荒廃が広がっている。加えて、えぐれた登山道では雨が降るとぬかるみ、それを避けるために登山道脇を歩くことによって植生は失われ、登山道が広がり中には車が通れるほどの広さになっている登山道もある。また、最近では登山時に腰やひざの負担を軽減する目的でステッキやストックなどを使用する人が多くなってきているが、それらで登山道の土が掘り起こされ、柔らかくなった土が雨で流出するなど登山道が荒れる原因になっている。
 
290行目:
=== 山岳会 ===
登山愛好者の団体を山岳会(さんがくかい)と称する。山岳会には山または歩くことにちなんだ名前が付けられることが多い。
学校または職場単位で結成される山岳会は部活動として特に山岳部や登山部、ワンダーフォーゲル部などと称する<ref group="注釈*">厳密に言えば登山とトレッキング、ハイキング、ワンダーフォーゲルには細かい差異があるが、山岳での野外活動という点で共通している。</ref>。
1857年には世界最初の山岳会である英国山岳会が設立され、1905年には日本最初の山岳会である[[日本山岳会]]が設立された。それ以降も日本国内で様々な山岳会が結成され、全日本山岳連盟(現・[[日本山岳協会]])と勤労者山岳会(現・[[日本勤労者山岳連盟]])のような統括団体が生まれた。
山岳会は主に団体での山行や会員同士による登山技術の研修指導を行っている。会によっては、登山道もしくは[[山小屋]]の維持修繕、救助活動の支援、非会員への講演・研修、森林の保護、高山へ挑戦する会員の支援などを行っている。また、登山用品メーカーに対しては消費者団体としての側面も持つ<ref group="注釈*">[[ナイロンザイル事件]]を参照。</ref>。
 
=== 登山ガイド団体 ===
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[[山岳写真]]を参照せよ。
 
== ==
{{Reflist|group="釈"ヘルプ}}
=== 出典注釈 ===
 
{{Reflist|group=*}}
== 出典 ==
=== 出典 ===
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[[画像:アンナプルナⅢ、マチャプチャレ1.jpg|thumb|登山のメッカ、[[ヒマラヤ山脈|ヒマラヤ]]連峰の[[アンナプルナ]]III峰]]
 
== 参考文献 ==
[[画像ファイル:アンナプルナⅢ、マチャプチャレ1.jpg|thumb|230px|登山のメッカ、[[ヒマラヤ山脈|ヒマラヤ]]連峰の[[アンナプルナ]]III峰]]
* 『北アルプス この百年』[[2003年]](平成15年)著 菊池俊朗 文春新書 ISBN 4166603477
* 『北アルプス博物誌 I 登山・民俗』第5版 [[1974年]](昭和49年) 編者 [[大町山岳博物館]] 発行所 信濃路 発売元 社団法人農村漁村文化協会