「第十八富士山丸事件」の版間の差分

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== 事件の概要 ==
[[1983年]][[11月1日]]、日朝間を交易のため往復していた日本の冷凍貨物船「第十八富士山丸」は、ハマグリを積んで<ref>{{Cite web|url=https://mainichi.jp/articles/20170501/ddn/041/030/019000c|title=ミサイル・核実験、余裕ない 34年前抑留・第18富士山丸、紅粉さん危機感|accessdate=2018-02-25|date=2017-05-01|publisher=毎日新聞}}</ref>[[南浦特級市|南浦]]港を出港した。その2日後に日本の[[対馬]]の南方をさしかかった時に密航のために忍び込んでいた[[朝鮮人民軍]]兵士[[閔洪九]]を発見し、所属会社の[[富士汽船]]と[[海上保安庁]]に通報した。当船の紅粉勇船長は門司海上保安部の要請で[[山口県]]西方の小さな島の沖合いにある六連検疫錨地に到着した。
 
本来なら「密航者を連れてきた船は、密航者を元の国に送り届ける義務がある」との法律に従った行動をとるべきであったが、当局の指示で[[福岡県]][[北九州市]]門司で身柄を引き渡した。ところが密航者が取り調べの最中に[[日本の政治|日本政府]]に[[亡命]]を申請し身柄を送還することができなくなった。
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船も抑留され、機関長の栗浦が修理や整備に当たったが、発電機破損により修理不能となり廃船となった。朝鮮民主主義人民共和国政府は、[[1987年]][[1月]]に発生した朝鮮人医師金萬鉄一家11人が亡命を求めて日本の[[福井港|福井新港]]に漂着した[[ズ・ダン号事件]]で日本政府が金萬鉄の第三国([[大韓民国|韓国]])への亡命を許可したことを「政治的謀略行為」と非難し、第十八富士山丸事件の抑留している2人の帰国が困難になったなどと表明した。
 
乗組員2名は、1987年11月に閔洪九が日本で仮釈放された直後(12月)に北朝鮮当局によって裁判にかけられ、[[1988年]]に法廷は教化労働15年の刑罰を宣告し<ref name=":0">{{Cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E7%AC%AC18%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1%E4%B8%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6-159052|title=第18富士山丸事件|accessdate=2018-02-25|publisher=コトバンク}}</ref>、2年5ヶ月の獄中生活を強いられる事になった。
 
日本政府は解放要求をしたものの、日本国[[外務省]]は「[[国交]]がないから、民間ベースで話し合え」として国交がないことを理由に不作為に終始した。また北朝鮮の友好国等の第三国を仲介しての解放交渉も全く行われなかった。
 
第十八富士山丸乗組員の救援運動が起こり、当時の[[日本社会党]]が熱心に取り組むとともに、1987年には当時の[[土井たか子]]委員長が[[金日成]]主席との会談で「乗組員の釈放・帰還」を強く切り出し「政府間交渉に委ねる」との返答を得た。1988年の[[大韓航空機爆破事件]]による北朝鮮への制裁措置により、問題解決が宙に浮いたこともあったが<ref name=":0" />、[[冷戦]]終結を挟んでの交渉の末に、1990年の[[金丸信|金丸]]・[[田邊誠|田辺]]訪朝団でようやく解放が決まり、その後の土井たか子・社会党委員長と[[小沢一郎]]・自民党幹事長が乗るチャーター機で同年10月11日に帰国を果たすことができ<ref name=":0" />
 
野党外交を担ってきた当時の社会党は、北朝鮮に捕らわれている漁民の帰国のための交渉などに尽力し、再発防止のための漁業協定の締結に努めた。『北朝鮮抑留 - 第十八富士山丸事件の真相』によれば、2名は「日朝の友好を乱さぬように」とする政治的事由から彼の地における体験については公言せず沈黙を守るように宣誓させられたという。実際に2人が帰国後マスコミに露出することは少なかった。また、その後2人が所属する会社が原告となって、関係行政機関が密航者が政治亡命を希望する軍人であることを知りながら会社と乗組員に明確に伝達しなかったこと等を理由として国と福岡県を被告として[[民事訴訟]]を提起したが、裁判所は北朝鮮によって長期間抑留することは予測できなかったので関係機関職員が情報を伝達しなかったことに違法はないと判断したため、敗訴した。
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一方、閔洪九は密入国容疑で収容され、[[福岡入国管理局]]から[[退去強制]]令書が発せられ、それに対する執行停止申立も[[東京地方裁判所]]で却下された。しかし「人道上の配慮」から北朝鮮へは送還されず、のちに放免された。韓国[[国籍|籍]]を取得したが、[[1988年]]に[[法務省]]から異例の[[在留特別許可]]を受けて日本で生活していた。だが傷害事件などで度々逮捕され、[[2003年]]4月には[[栃木県]][[宇都宮市]]のデパートで女子高校生の体を触るなどの[[わいせつ行為]]をした疑いで逮捕・起訴された。実刑になれば[[出入国管理及び難民認定法]]第24条各号所定の[[退去強制]]事由に該当するため、日本国内から強制退去になる可能性があった。しかし[[2004年]]3月には留置場の金網を素手で破って一時逃亡を図るも、すぐ収監され、同年4月1日午後9時すぎごろに収容されていた[[栃木県警察]][[宇都宮中央警察署]]の[[留置場]]で[[首つり]]自殺をした。享年40。
 
[[2013年]]11月23日、[[日本放送協会|NHK]]の報道番組において、かつて抑留されていた2人の最近のインタビューの映像が公開された。それによると、北朝鮮側が2人の家や間取り、家族などの情報を得ており、「家族が[[交通事故]]に合うこともありえる」というような脅迫をされていたことを明らかにしている。また、社会党が訪朝した時の面談の時の会話は、すべて事前に北朝鮮側から[[台本]]が渡されており、その通りの言葉以外は禁じされていたことも明らかにされた。
 
== 参考文献 ==
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*紅粉勇 「人生の嵐を越えて - 北朝鮮抑留七年間の真実 - 」 ベラカ出版 [[2007年]]
*「判例時報 1594」2007年
 
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==