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'''リッチー・ブラックモア'''(Ritchie Blackmore, 本名:Richard Hugh Blackmore(リチャード・ヒュー・ブラックモア),[[1945年]][[4月14日]] - )は、[[イギリス]]出身の[[ギタリスト]]。[[アメリカ合衆国]]在住。{{要出典範囲|ミドル・ネームがハロルド(Harold)と表記されることも多いが|date=2018年2月}}、誤りである。身長179cm。
 
[[ディープ・パープル]]の元メンバーとして有名。その後、別のロックバンド・[[レインボー_(バンド)|レインボー]]を率いた。現在はフォーク・ロック・プロジェクト、[[ブラックモアズ・ナイト]]で活動している。
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11歳の誕生日に、当時の価格で7[[ポンド (通貨)|ポンド]]の[[スパニッシュ・ギター]]を父親からプレゼントされ、その後、[[クラシック・ギター]]のレッスンを約1年間受ける(自身のコメントによると、フレットを押さえる時に小指が使えるのは、その時のレッスンが生きているから)<ref name=mik>三木千寿 『リッチー・ブラックモア:狂気の雷舞』より。</ref>。
 
14歳の時、初めて[[エレクトリックギター]]の'''[[カール・ヘフナー]]''' ([[w:en:Höfner|Höfner]])・'''クラブ=50''' を手にした彼は、人前で初めての演奏を披露した。こうしてエレクトリックギターの魅力に取り憑かれた彼は、当時近所に住んでいたギタリスト、[[ビッグ・ジム・サリヴァン]]に師事し<ref name=mik/>、ギターの腕前を向上させていった。
 
== 下積み時代 ==
[[1960年]]、初のプロ・ユース・エレクトリックギター、[[ギブソン社|ギブソン]][[ギブソン・ES-335|ES335]]を手に入れる。その後、学校を卒業した彼は[[ロンドン]]の[[ヒースロー空港]]で技師として働き始めるが、音楽への情熱を捨てきれず、[[ジャズ]]・ギターの練習やバンド活動にいそしんでいた。またこの頃から、[[スキッフル]]・バンドの'''ザ・ドミネイションズ'''や'''ザ・サフォナイツ'''、'''ザ・デトネイターズ'''、'''マイク・ディーン・アンド・ザ・ジェイウォーカーズ'''といったローカル・バンドでセッションを行っていた<ref name=mik/>。
 
その後、そういった活動に見切りをつけ、ドイツのハンブルクに渡った時、'''{{仮リンク|スター・クラブ''' ([[w:|en:Star-Club|Star-Club]]) }}'''[[スクリーミング・ロード・サッチ]] '''と出会い、セッションを行った。さらに後日、ブラックモアを気に入ったロード・サッチは、自身のバンドである'''ロード・サッチ・アンド・ヒズ・サベージス''' に加入させた。ロード・サッチという人物は音楽的な実力よりもショーマンとしての能力に秀でていると評されているミュージシャンであり<ref name=mik/>、このバンドに在籍した2年間、ロード・サッチは、実力はあっても地味な印象しかなかったブラックモアにメイクをさせ、ステージで大きなアクションをするように要請した<ref>『リッチー・ブラックモア:狂気の雷舞』によれば、この経験は、その後のショーマンとしてのリッチー・ブラックモアの形成に大きく貢献している。</ref>。ロード・サッチとのセッションと平行して、'''「{{仮リンク|テルスター''' ([[w:|en:|Telstar (song)|Telstar]])}}」 のヒットで知られる'''[[トネイドー]]''' ([[w:en:The Tornados|The Tornados]]) のレコーディング・セッションなどもこなし、次第に実績を蓄えていく。
 
1963年からは、RGMスタジオのセッション・ミュージシャンとなり、[[トム・ジョーンズ (歌手)|トム・ジョーンズ]]や上記のテルスターで知られる売れっ子プロデューサーの'''[[ジョー・ミーク''']] ([[w:en:Joe Meek|Joe Meek]]) の下で多くのセッション活動をこなした。同年、トーネイドーズのベーシストでもあった歌手'''[[ハインツ・バート]]''' ([[w:en:Heinz (singer)|Heinz]]) の伴奏を務めている。6月には再度ハンブルクに行き、ジョー・ミークの関連で'''ジ・アウトローズ'''([[w:en:The Outlaws (UK band)|The Outlaws]]) に加入した。アウトローズはメインとして[[レコード]]を出す傍ら、上記のハインツや[[ジーン・ヴィンセント]]の[[伴奏]]も手がけているが、1964年5月に脱退。リッチーを気に入っていたハインツの要請で、彼のバンドである'''ハインツ・アンド・ザ・ワイルド・ボーイズ'''にリーダーとして加入したが、音楽的な限界を感じて翌1965年に脱退し、ロード・サッチ・アンド・ヒズ・サベージスに再加入している。[[ジェフ・ベック]]や[[ジミー・ペイジ]]と短期間セッションを行ったのもこの頃である。
 
1966年、二人の友人とハンブルクに再々渡航し、'''スリー・マスケティアーズ'''を結成するが、すぐに解散、さらに'''マンドレイク・ルート'''というバンドを結成するが、資金面の困難さからすぐに消滅してしまう。低迷した時期だったが、この頃'''クリス・カーティス''' ([[w:en:Chris Curtis|Chris Curtis]]) や[[イアン・ペイス]]と知り合ってもいる。
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== ディープ・パープル時代 ==
[[File:Ritchie_Blackmore_1971.jpg|thumb|left|upright|ディープ・パープル時代 (1971年)]]
[[1967年]]、当時'''[[サーチャーズ]]'''で[[ドラムセット|ドラムス]]と[[ボーカル]]を担当していた'''[[クリス・カーティス''']] ([[w:en:Chris Curtis|Chris Curtis]]) が発起人となり、新しいバンドを結成するためのメンバーを探し始めた。最初に候補に挙がったのがブラックモアと'''[[フラワー・ポットメン''']] ([[w:en:The Flower Pot Men (band)|The Flower Pot Men]]) のバック演奏を務めていた[[キーボード (楽器)|キーボード]]・プレイヤーの[[ジョン・ロード]]である。様々な事情から計画は一度中断したが、その後、'''ボビー・クラーク'''(ドラマー)、'''デイヴ・カーティス'''(ベーシスト)を加えて、'''ラウンドアバウト'''というバンド名でとりあえず結成した。しかしやがてクリス・カーティスが辞め、ボーカルに[[ロッド・エヴァンス]]が加入、さらに、その時に付いて来た[[イアン・ペイス]]がボビー・クラークを押しのけてドラマーとして加入した。こうして体制が整った時点でバンド名を「[[ディープ・パープル]]」に改め、アメリカの新興レコード会社、'''[[テトラグラマトン・レコード''']] ([[w:en:Tetragrammaton Records|Tetragrammaton Records]]) よりデビューを飾る(以降のバンド自体の概要/活動歴は「[[ディープ・パープル]]」を参照)。
[[File:Blackmore.jpg|thumb|right|140px|ディープ・パープル再結成時(1984年)]]
リッチー自身は、オリジナル第一期~第三期に在籍。[[1975年]]6月に脱退。1984年、ディープ・パープルの再結成を主導。しかし他のメンバーとの音楽的嗜好の食い違いなどから[[1993年]]に再度脱退。そのため、翌年の来日公演の時は[[ジョー・サトリアーニ]]が代役を務めた(その後は[[スティーヴ・モーズ]]が加入している)。
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==使用機材==
[[File:Ritchie Blackmore (1985).jpg|thumb|right|140px|愛用のフェンダー・ストラトキャスター(1985年)]]
ハード・ロック演奏時に於ける使用楽器はラージヘッド仕様の[[フェンダー・ストラトキャスター]]が有名。ストラトキャスターには[[指板]]をえぐる([[スキャロップド・フィンガーボード]])、[[トレモロ・ユニット|トレモロアーム]]を交換する<ref>初期は鉄製の太い物へ、中期以降はステンレスへ交換。</ref>、[[ピックアップ (楽器)|ピックアップ]]のワイアリングを換えるなどの改造<ref>1975年頃、レインボー時代の電飾'''『虹』'''に起因するノイズ対策の為、'''ジョン・ドーク・スティルウェル'''がPUコイルのリワイア、ワックス含浸とピックガード裏全体に銅版シールドの改造を行った。[http://www.dawksound.com/rainbow.html Dawk Sound Limited]</ref>が施されていた。
 
ディープ・パープル初期は、[[ギブソン・ES-335]]をメインに[[フェンダー・テレキャスター]]、テレキャスターのネックが移植されたストラトキャスターを使っていた例もあるが、バンドがハード・ロック色を明確に打ち出して以降は、全面的にストラトキャスター<ref>年式は特に拘っていないが、70年代前半は特に1968年製の貼りメイプルBLK 「初来日前に行われた全米ツアー中に破壊してしまった」、1971年製のワンピース・メイプルSB「後にヘッドストックの下が割れてしまった状態で使用し続けたのは有名」、1972年製のナチュラル/メイプル機を愛用し、70年代中期以降は1974年製のホワイト/ローズ、1976年製のホワイト/ローズを中心に愛用。</ref>を使用している。ディープ・パープル再結成以降から近年ではアームはほとんど使用していない。95年の[[YOUNG GUITAR]]誌でのインタビューによれば「あの頃(活動初期)はアームを使うプレーヤーがあまり居なかったが、現在は多く用いられるようになったので止めた」と発言している。
<br>[[エフェクター]]は1970年頃、イギリス製'''[[:en:Treble booster#Hornby Skewes|ホーンビー・スキューズ(Hornby Skewes)]]''' のトレブル・ブースター<ref>シンコー・ミュージック・ムック The Guitar Man : '''RBギターズ''' P116~P117 参照 ISBN 978-4-401-63258-9</ref>を入手、第2期終盤まで使用。ダラス・アービターの[[:en:Fuzz Face|ファズフェイス]]を1969年から1971年頃まで使用していた<ref>アルバム『DEEP PURPLE IN ROCK』、『FIREBALL』でそのサウンドが聴ける。</ref>。1973年頃から[[アイワ]]の[[オープンリール|オープンリール・テープデッキ]][http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-03-34/with_3head_3motor/folder/13735/12/33153712/img_0?1441410250 '''TP-1011''']<ref>シンコー・ミュージック・ムック The Guitar Man : '''RBギターズ''' P100, P118~122から引用 ISBN 978-4-401-63258-9</ref>を、改造しエコーマシンとして、1977年から[[モーグ・シンセサイザー|モーグ]]のベースペダル・'''タウラス・ペダル・シンセサイザー(TAURUS Ⅰ)'''<ref>シンコー・ミュージック・ムック The Guitar Man : '''RBギターズ''' P101、P116参照 ISBN 978-4-401-63258-9</ref>を使用している。アンプは[[マーシャル (アンプ)|マーシャル]]の200Wアンプ<ref>[[:en:Marshall_Major|アンプヘッド''' MARSHALL MAJOR - MODEL 1967''' 改良版を1968年に入手、1993年の再脱退まで使用。]]</ref>を好んで使用していたが、再結成レインボー以降ではENGL社のハイゲインアンプが気に入り、現在までシグネイチュア・モデル・アンプヘッドからコンボ・アンプといった具合に多く用いている。ピックは鼈甲製の「ホームベース型」<ref>本人は野球が嫌いなので'''五角形'''と呼んでいる。</ref>と呼ばれる物を長年愛用している。
 
ブラックモアズ・ナイトでは、[[アコースティック・ギター]]を中心に演奏している。
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== 結婚歴 ==
[[File:Candice Night 2009.jpg|thumb|right|250px|妻キャンディス・ナイト(2009年)]]
1960年代前半、ドイツのハンブルクでマーギットという女性と最初に結婚している。このマーギットとの間に1964年に生まれたのが、一時期'''[[アイアン・エンジェル''']] ([[w:en:Iron Angel|Iron Angel]]) のギタリストであった'''[[ユルゲン・リヒャルト・ブラックモア]]'''。ユルゲンは現在、元レインボーの[[ジョー・リン・ターナー]]などと結成した新バンド「オーヴァー・ザ・レインボー」([[:en:Over the Rainbow (band)|Over the Rainbow]])で活動している<ref>{{cite web |url=http://www.jrblackmore.de/index.php?option=com_content&view=article&id=5&Itemid=2 |work=Official Site of J.R.Blackmore |title=BIO |accessdate=2010-07-15}}</ref>。
 
2度目の結婚は1969年9月で、同じくドイツ人女性の'''バブス・ハーディー''' (本名はバーベル)<ref>{{cite web |url=http://www.sixtiescity.com/Events/Events69.shtm |title=Events 1969 |work=Sixties City |accessdate=2010-05-24}}</ref>。
 
3度目の結婚は1981年5月で、'''エイミー・ロスマン'''という女性と結婚した<ref>{{cite web |url=http://www.deep-purple.net/DPASmags/stargazer25.htm |title=DPAS Magazine Archive. Darker Than Blue, 1981 |accessdate=2010-05-24}}</ref>。
 
ブラックモアズ・ナイトで活動をともにしている'''[[キャンディス・ナイト]]'''とは1989年から付き合い始め、1991年から同棲していたが、1994年に婚約し<ref>{{cite web |url=http://candicenight.com/betweenus_archives/betweenus_07_2006.html |work=Candice Night Official Website |title=Between Us |date=2006-07 |accessdate=2010-05-24}}</ref>、2008年10月5日、キャッスル・オン・ザ・ハドソンで結婚した<ref>{{cite news |url=http://www.roadrunnerrecords.com/blabbermouth.net/news.aspx?mode=Article&newsitemID=106777 |title=RITCHIE BLACKMORE, Longtime Girlfriend CANDICE NIGHT Tie The Knot |date=2008-10-13 |work=Blabbermouth.net |accessdate=2010-05-24 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20110606134949/http://www.roadrunnerrecords.com/blabbermouth.net/news.aspx?mode=Article&newsitemID=106777 |archivedate=2011年6月6日 |deadlinkdate=2017年9月 }}</ref>。この26歳も年下の相手との間に、2010年生まれた娘がオータム・エスメラルダ・ブラックモア。
 
== 参考文献 ==