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'''袁 世凱'''(えん せいがい、拼音: Yuán Shìkǎi ユエン・シーカイ [[1859年]][[9月16日]]([[咸豊]]9年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]) - [[1916年]][[6月6日]])は、[[中華帝国 (1915年-1916年)|中華帝国]][[皇帝]]。中国[[清]]末[[中華民国|民初]]期の[[軍人]]・[[政治家]]。[[北洋軍閥]]の総帥。大清帝国第2代[[内閣総理大臣 (清朝)|内閣総理大臣]]を務めたが、清朝崩壊後は第2代中華民国臨時大総統、初代[[中華民国大総統]]に就任。一時期[[中華帝国 (1915年-1916年)|中華帝国]][[皇帝]]として即位し、その際に使用された[[元号]]より'''洪憲皇帝'''と呼ばれることもある。[[字]]は慰亭(いてい)、号は容菴(ようあん)。
 
== 人物 ==
清朝末期の軍人として陸軍の近代化を進める役割を担いつつ台頭し、彼自身が作り上げた軍事力を背景に政治的にも大きな権力を振るい、欧米諸国では彼のことを「ストロング・マン」と呼んだ。その後一時失脚するが、[[辛亥革命]]の混乱の中で朝廷と[[孫文]]ら革命派との間で巧みに遊泳し、中華民国大総統となり、革命派を弾圧するとともに、インフラ整備や軍備の充実などの面から国家の近代化に当たった。さらに一時皇帝に即位したが、内外の反発を買って退位、失意のうちに没した。
 
精力絶倫で、一[[妻]]九[[妾]]との間に17男14女をもうけた。長男の[[w:zh:{{仮リンク|袁克定|zh|袁克定]]}}は、[[吉野作造]]が家庭教師を務めた。父を補佐し、辛亥革命や、父の皇帝即位などにおいて数々の策謀を巡らせるも父亡き後は隠居してその生活は困窮を極め、[[中華人民共和国]]建国後に[[章士釗]]の中央文史館で職を得た。次男の[[w:zh:{{仮リンク|袁克文|zh|袁克文]]}}は[[崑曲]]家として著名な人物であるが、皇帝即位への反対で父の怒りを買って追われ、[[青幇]]の一員となった。
 
また、大叔父の[[袁甲三]]は[[道光帝]]時代の[[進士]]で、その子が戸部侍郎・刑部侍郎を勤めた[[袁保恒]](袁世凱の従父)である。
 
=== 皇帝即位と退位 ===
[[File:Picture of Emperor Yuan Shih-kai.jpg|thumb|right|200px|即位式の袁世凱]]
こうした不安定な状況の中、[[1915年]]に袁世凱は側近の[[楊度]]に皇帝即位運動をさせ、帝政を復活させた。翌[[1916年]]より年号を[[洪憲]]と定め、皇帝に即位し国号を「'''[[中華帝国 (1915年-1916年)|中華帝国]]'''」に改めた。こうした袁世凱の行動は、自らの野望を果たすためという面もあった一方で<ref>彼の皇帝即位への願望を示すエピソードはふんだんに残されているという。</ref>、四分五裂した中華を束ねるためには、強力な[[立憲君主制]]が必要との考えであったという見方もある。
 
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