「エカテリニ (ギリシャ王女)」の版間の差分

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'''エカテリニ・ティス・エラザス・ケ・ザニアス'''({{lang-el|'''Αικατερίνη της Ελλάδας και Δανίας'''}}, [[1913年]][[5月4日]] - [[2007年]][[10月2日]])は、[[ギリシャ王国|ギリシャ]][[ギリシャ国王の一覧|王]][[コンスタンティノス1世 (ギリシャ王)|コンスタンティノス1世]]とその妃[[ソフィア (ギリシャ王妃)|フィフォンティス・プロイセンシアス]]の三女、第6子。兄に[[ゲオルギオス2世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス2世]]、[[アレクサンドロス1世 (ギリシャ王)|アレクサンドロス1世]]、[[パウロス1世 (ギリシャ王)|パウロス1世]]、姉に[[ルーマニア王]][[カロル2世 (ルーマニア王)|カロル2世]]の妃[[エレナ・ア・ロムニエイ|エレーニ]]、クロアチア王[[トミスラヴ2世]]の妃[[イレーネ・ディ・グレチア|イリニ]]がいる。
 
== 生涯 ==
エカテリニは王太子だったコンスタンティノス夫妻の末娘として[[アテネ]]の王宮で生まれた。生まれて数週間後、祖父の[[ゲオルギオス1世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス1世]]が[[テサロニキ]]で暗殺され、父コンスタンティノスが国王に即位した。エカテリニの[[洗礼]]時、[[ギリシャ陸軍]]および[[ギリシャ海軍]]に所属する者全員が王女の名付け親となった。
 
父が1917年に廃位され、次兄[[アレクサンドロス1世 (ギリシャ王)|アレクサンドロス1世]]が王位につくと、幼いエカテリニは両親に連れられて[[スイス]]に亡命した。父王はアレクサンドロス1世が1920年に死ぬとつかのま復位したが、1922年に再び廃位され、今度は[[シチリア]]に亡命した。父王は翌1923年に[[パレルモ]]で客死した。王家は[[フィレンツェ]]のヴィラ・スパルタに引っ越し、ここでエカテリニは絵を描くようになった。父が2度目に廃位された後、[[ゲオルギオス2世 (ギリシャ王)|ゲオルギオス2世]]が短期間王位についたが、1924年には退けられた。
 
エカテリニはイングランドの寄宿学校で教育された。エカテリニの母ソフィア王妃は1932年に亡くなったが、エカテリニはその後も次姉イリニと一緒にヴィラ・スパルタに住み続けた。1934年に従姉の[[マリナ (ケント公爵夫人)|マリナ]]がイギリス王[[ジョージ5世]]の4男[[ジョージ (ケント公)|ケント公ジョージ]]と結婚したとき、エカテリニはヨーク公女エリザベス(後の女王[[エリザベス2世]])と一緒にブライズメイドを務めた。
 
1935年に長兄ゲオルギオス2世が復位すると、エカテリニも姉イリニとともにギリシャに帰国した。1939年に[[第2次世界大戦]]が起きると、エカテリニはギリシャ[[赤十字]]に参加した。1941年、彼女は三兄パウロスと一緒に[[南アフリカ]]に赴き、[[ケープタウン]]で従軍看護婦として働いた。エカテリニは1946年にエジプトからイングランドに向かう蒸気船「アスカニア」号に乗って再びイギリスに移住したが、この船上でイギリス砲兵部隊の将校リチャード・ブランドラム少佐(1911年 - 1994年)と出会った。2人はイングランドに到着して三週間後に婚約し、1947年4月21日にアテネ王宮で結婚式を挙げた。長兄ゲオルギオス2世はエリニの結婚式直前に亡くなったため、その後を継いでいた三兄[[パウロス1世 (ギリシャ王)|パウロス1世]]が結婚の仲人を務めた。
 
エカテリニは夫の赴任地であった[[バグダード]]に住んだが、夫妻は後にイングランドに帰国した。エカテリニはイギリスでは'''レディ・キャサリン・ブランドラム'''(Lady Katherine Brandram)と名乗ることを許され、イギリス王[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]は彼女を[[宮中席次]]において公爵令嬢として遇した。ただしこうした称号・待遇はイギリス国内のみで通用するもので、彼女はイギリス国外では「ギリシャ王女およびデンマーク王女」として扱われた。夫妻は一人息子ポール(1948年 - )をもうけた。