「ドイツ革命」の版間の差分

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ミュンヘンではレーテ共和国革命とそれに続く内戦は、ソ連等外国の共産党勢力に押しつけられた「[[恐怖政治|恐怖支配]]」として住民の記憶に残った<ref name="K-I-136-150">[[#カーショー上|カーショー上巻]],p.136-150.</ref>。さらにドイツ全土でも、バイエルン革命はロシアの[[ボリシェヴィキ]]とユダヤ人がドイツを乗っ取るという見方が広まり、中産階級向けの新聞ミュンヒナー・ノイエステ・ナハリヒテン紙は「ロシア・ボリシェヴィズム工作員」である共産党が「罪のない人々を虐殺した」とし、これは「人道と正義の法に対する罪」であると報じた<ref name="K-I-136-150"/>。[[反共主義|共産主義への恐怖]]は保守的な中産階級と農村部に浸透し、ドイツの人民の間で急進右翼が支持されるようになり、これ以降、バイエルンは反革命の巣窟となった<ref name="K-I-136-150"/>。レーテ共和国崩壊後、40万の兵士を擁するバイエルン住民防衛軍が編成された<ref>[[#カーショー上|カーショー上巻]],p.196-7.</ref>。
 
[[1920年]][[3月13日]]に右派クーデター[[カップ一揆]]がベルリンで発生した。これに対抗した[[ルール地方]]の左派労働者が蜂起した([[ルール蜂起]])。ルール労働者評議会(レーテ)が結成され、一部が[[ルール赤軍]]として反乱を起こしたが、3月から4月にかけてヴァイマル共和国軍によって多数の犠牲者を出して鎮圧された。
 
== 脚注 ==