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ロジャース・ホーンスビーとの「世紀の大トレード」でジャイアンツからカージナルスに移った[[フランキー・フリッシュ]]は、1927年に打率.337・安打208本・盗塁48を記録し1928年には.300、1930年には.346を打ち、この年には打率.311・打点82・本塁打4本を打って盗塁28でこの年の盗塁王をも獲得しカージナルスの2連覇に貢献した。ただ首位打者は同僚の[[チック・ヘイフィー]]で、この年の彼が格別に優れていた訳ではない。2年前の旧MVP制度で最後のMVPがロジャース・ホーンスビーだったが、ホーンスビーも得点王だけで獲得したものだった。フリッシュの場合も彼の13年間にわたる攻守の成績が総合的に評価された、と見られている。フリッシュは2年後の1933年から選手兼任でカージナルスの監督に就任し、1934年に「ガスハウスギャング」と呼ばれたカージナルスを率いてリーグ優勝を果たす。
===全米大リーグ選抜チームの訪日===
この年のシーズン終了後にメジャーリーグの選手14人が読売新聞社の招きで日米親善のため訪日した。この当時の日本はまだ職業野球が無く(1920年に日本運動協会及び大毎野球団の動きがあったが1929年に解散した)、中等学校野球(甲子園)・大学野球の隆盛とともに職業野球団の結成に意欲を燃やしていた[[正力松太郎]]が日本での野球人気の高まりに着眼し、大リーグ選抜を招待して全17試合を主催した。この時の参加メンバーには[[ルー・ゲーリッグ]](ヤンキース)[[ミッキー・カクレーン]](当時はアスレチックス)ウォルタ[[レフティ・グロ・ジョンソンブ]](アスレチックス)[[レフテ・オドール]](ロビンス)などで、この選抜チームの対戦相手をしたの東京六大学野球学生で宮武三郎(慶応大)この頃はまだ職業野球は無かった時代であり山下実(慶応大)ゲーリッグはケガのため試合には殆ど出場伊達正男(早稲田大)らが参加ていなかっ。主催は読売新聞社で17試合を行い45万人の観衆を集めた。一緒に来日した全米野球記者協会の元会長フレッド・リーブは日本で野球が盛んであったことに驚いた代表各地回想録で記している。主催の読売新聞社は参加メンバーであったレフテイ大学オドールに今回参加しなかったベーブ・ルースを次の機会には参加してほしい旨を伝え、これが3年後に再び大リーグ選抜実業団チームの再来日につながであった。
 
ゲーリッグはケガのため試合には殆ど出場していなかったが、全17試合を行い圧倒的な大差で日本は17連敗であった。しかし、総計45万人の観衆を集めたと言われる。これにより日本ではますます野球熱が高まり、一緒に来日した全米野球記者協会の元会長フレッド・リーブは日本で野球が盛んであったことに驚いたと後の回想録で記している。主催の読売新聞社は参加メンバーであったレフテイ・オドールに今回参加しなかったベーブ・ルースを次の機会には参加してほしい旨を伝え、これが3年後に再び大リーグ選抜チームの再来日につながった。この3年後の2度目の全米大リーグ選抜チーム(ベーブ・ルースも参加)の来日から今日のプロ野球チームの結成の動きが本格化した。
=== 規則の改訂 ===
* [[二塁打|エンタイトルツーベース]]の規則が確立した。
* 『オールタイム大リーグ名選手101人』フランキー・フリッシュ 105P参照 1997年10月発行 日本スポーツ出版社
* 『ベースボール・グラフィティ』 リーブの回想録  205P参照  常盤新平 著 1988年5月発行  講談社 
* 『プロ野球と鉄道』第1章 黎明期の職業野球 27-28P参照 田中正恭著 2018年2月発行 交通新聞社新書
== 外部リンク ==
* [http://www.baseball-reference.com/ Baseball-Reference.com]
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