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=== 権力獲得まで ===
[[曹叡]](明帝)の東宮([[皇太子]])時代から寵愛が厚く、曹叡が即位すると散騎常持になり、やがて武衛将軍になるなど、取り分け厚遇されていた。
 
[[239年]](景初3年)に曹叡が病床に伏すと、曹爽は[[大将軍]]の位を賜り、[[司馬懿]]と共に[[猶子]]で皇太子の[[曹芳]](一説では[[曹彰]]の孫)の補佐をすることを命じられた。
 
曹叡が36歳で崩御し曹芳(斉王)が即位すると、曹爽は[[侍中]]の位を与えられ、「剣履上殿」・「入朝不趨」・「謁不名」(剣を帯び、靴を履いたまま昇殿し、小走りに走らずともよく、帝に目通りする際は実名を呼ばれない)と言う特権を与えられた。
 
=== 司馬懿との対立 ===
初め、司馬懿に対しては父親に等しい対応で接していたが、[[何晏]]ら取り巻きの提言で権力を独占しようと画策し、司馬懿を[[太傅]]に祭り上げて、事実上の名誉職に追いやることで、彼の権力を押さえ込もうとした。しかし、司馬懿の軍事的実績が重く、その軍権はそのままだった(曹爽も司馬懿の軍権を保証するため、司馬懿の[[大司馬]]兼任を推挙したが、不吉な先例があったとして却下されている)。一方曹爽の取り巻きは、名声はあるものの実績が乏しかった。そこで、大功を立てようと[[244年]]([[正始 (魏)|正始]]5年)に[[蜀漢]]征伐を試みるが([[興勢の役]])、険しい地形に阻まれて大軍を維持するための補給が滞り、蜀の[[王平]]の頑強な抵抗もあって無惨にも失敗している。また、補給に[[テイ_ (民族)|氐]]・[[羌]]族を動員したが、輸送などの事故による犠牲者が少なからず出たため、彼らの不満を高める結果になった。その後、何晏達が政治を壟断したため、魏の政治は乱れることになった。司馬懿はこの状況を憂慮し、また保身のため「自分は高齢である」という理由で、病気と称して引き籠ってしまった。
 
魏は[[曹丕]](文帝)以来、皇族などの近親者を政治・軍事両面から遠避ける政策を採ってきた。遠縁の[[曹冏]]([[曹騰]]の従玄孫)はこれを憂慮し、一族を登用して藩塀(国家を守る壁)としての役目を果たさせるべきと意見した。しかし、曹爽はこの意見を採用することはなかった。
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[[248年]](正始9年)曹爽の取り巻きの一人である[[李勝]]が、[[荊州]]に赴任するに当たり司馬懿を見舞った時、司馬懿は重病を装い彼らを欺いた。
 
[[249年]](正始10年)[[1月6日_ (旧暦)|正月(1月)6日]]、曹爽・[[曹羲]]兄弟が皇帝の墓参りのお供をして出かけたのを見計らい、司馬懿は抱き込んだ[[明元皇后郭氏|郭皇后]]の命で兵馬を指揮して、[[洛陽]]の武器庫を占拠し城を閉門させ[[クーデター]]を起こした。側近の[[桓範]]は、曹家所縁の[[許昌]]に拠って兵馬を募り、併せて食糧徴発権を持つ[[大司農]]の[[印章]]を提示して司馬懿との決戦を主張したが、先手を取られた曹爽は、「私は[[富豪]]でいられるのならば、司馬懿に降伏してもいい」と述べ、司馬懿から軍籍解任と引き換えに罪を許すと言われると、戦意を失い降伏した([[高平陵の変]])<ref>『魏氏春秋』では、曹爽の対応を聞いた桓範は「曹子丹(曹真)は立派なお方だったが、その子である曹伯昭(曹爽)兄弟は、畜生も同然だ。私がこのような連中に連坐させられて、処刑される憂き目に遭うなど夢にも思わなかった」と嘆いたと記されている。</ref>。しかし司馬懿は曹爽兄弟を解任したばかりでなく、軟禁して徹底的な監視下に置き、食料の買出しさえも自由にさせなかった。そこで司馬懿に殺意があるのか窺う意味も込めて、食料の差入を申し入れると、すぐ食料が届けられたため、曹爽たちは安心した。
 
しかし[[1月10日_ (旧暦)|正月10日]]になり、[[宦官]]張当の「曹爽らが3月に謀反を計画していた」という自白を根拠に、何晏らと共に謀反を企てた疑いで投獄され、即日三族皆殺しの刑に処せられた。
 
皇族[[曹氏]]の勢力はこれ以降衰退し、司馬懿の一族が事実上の支配権をもつことになった。