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=== 西燕成立 ===
慕容泓は長安の前秦皇帝[[苻堅]]に、兄の慕容暐を送れば関中を去って前秦を侵さないことを約束した。苻堅は慕容暐を召し出して追及したが慕容暐が忠誠を誓ったために助命した。さらに慕容垂、慕容泓、慕容沖に降伏を促す手紙を書かせた。しかし慕容暐は同時に密かに慕容泓に使者を遣わした。その使者が言うには、大業を建てることにつとめ、苻堅が慕容暐を処刑したら皇帝を名乗るように、ということであった<ref>『資治通鑑』「晋紀」巻105:「暐密遣使謂泓曰:『吾籠中之人,必無還理;且燕室之罪人也,不足復顧。汝勉建大業,以王為相,中山王為太宰、領大司馬,汝可為大軍、領司徒,承吾死,汝便即尊位。』」</ref>。慕容暐が死んで慕容泓が長安に進み、[[燕興]]と改元することで実質的に西燕が成立した<ref>『資治通鑑』「晋紀」巻105</ref>。
 
西燕が成立して間もなく、慕容泓が法に厳しく、慕容沖の方が徳望があると信じて擁立しようとした[[高蓋]]などにより殺害された。死後、慕容沖によって粛宗の[[廟号]]と烈文皇帝の[[諡]]号が追尊された。