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== 人物 ==
叔父・朱全忠が汴を治めるようになると軍職を歴任する。叔父と共に、'''光州'''[[刺史]]の[[秦宗権]]を生け捕りにして、これを処刑した功績により検校右散騎常侍、'''・柳'''の両州の刺史に任じられる。
 
903年6月、王師範を攻めたが莱州で足止めされ、王茂章の軍に挟撃されて斬首された。叔父が皇帝に即位すると、'''安王'''としての[[諡号]]を贈られたという。
=== 旧五代史 ===
'''(梁書巻十二 宗室列伝二)<br />
 王友寧,字安仁。少習詩禮,長喜兵法,有倜儻之風。太祖鎮汴,累署軍職,每因出師,多命統驍果以從。及擒秦宗權,太祖令友寧轞送宗權西獻於長安,詔加檢校右散騎常侍、行右監門將軍。自是繼立軍功,累官至檢校司空兼龔、柳二州刺史。太祖駐軍岐下,遣友寧領所部兵先歸梁苑,以備守禦.屬青帥王師範亂,以關東諸鎮兵悉在岐、隴,自齊、魯至於華下,羅布姦黨,皆詐以委輸貢奉為名,陰與淮夷、門結好。會有青人詣[[裴迪]]言其狀,迪以事告,友寧不俟命乃率兵萬餘人東討。師範遣其弟將兵圍齊州,友寧引兵救之,青寇大敗,奪馬四千蹄,斬首數千級。及昭宗歸長安,朝廷議迎駕功,友寧授嶺南西道節度使,加特進、檢校司徒,賜號迎鑾毅勇功臣。時青寇數千,越險潛伏,欲入兗州。友寧知之,伏兵於兗南邀之,大破賊■,眾,無得免者。自是兗壁危窘,友寧督諸軍進逼營丘,首攻博昌縣,月餘未能拔。太祖怒,遣劉捍督戰。友寧乃下俘民十餘萬,各領負木石,牽牛驢,於城南為土山。既至,合人畜木石排而築之,■,冤枉之聲,聞數十里.俄而城陷,盡屠其邑人,清河為之不流。及進迫寇壘,與青人戰於石樓,王師小■,卻,友寧旁自峻阜馳騎以赴敵,所乘馬蹶而仆,遂沒於陣。友寧將戰之前日,有大白蛇蟠於帳中,友寧心惡之,既而果遇禍焉。
 
=== 新五代史 ===
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