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=== 大政改革と廃藩置県 ===
[[File:Nihonbashi Elementary School-3.jpg|thumb|千代田[[中央区立日本橋小学校]]にある「西郷隆盛屋敷跡」の碑(2018年2月28日撮影)]]
明治3年(1870年)2月13日、西郷は村田新八・大山巌・[[池上四郎 (薩摩藩士)|池上四郎]]らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事・[[毛利元徳]]に謁見したのちに鹿児島へ帰った。同年7月27日、鹿児島藩士で[[集議院]]徴士の[[横山安武]]([[森有礼]]の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して<ref group="注釈">『[[丁丑公論]]』に詳しい。</ref>、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した<ref>『西郷隆盛全集』第6巻、補遺、五</ref>。
12月、危機感を抱いた政府から勅使・[[岩倉具視]]、副使・大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革のために上京することを承諾した。