「禎子内親王」の版間の差分
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母は[[摂政]][[藤原道長]]女・[[皇后]][[藤原妍子|妍子]]。[[院号]]は'''陽明門院'''(ようめいもんいん)。所生の子女に、[[後三条天皇|尊仁親王(後三条天皇)]]、[[伊勢斎宮]][[良子内親王]]、[[賀茂斎院]][[娟子内親王]]がいる。
== 生涯 ==
[[長和]]2年10月
禎子内親王の誕生は祖父道長と父[[三条天皇]]の間がしっくりいかない最中のことであり、それだけに[[皇子]]誕生で関係改善を期していた道長は[[皇女
[[治安 (元号)|治安]]3年(1023年)上東門院にて[[裳着]]、[[一品親王|一品]]に叙される。[[万寿]]4年(1027年)、[[皇太子]][[後朱雀天皇|敦良親王]]に入内。叔母の[[皇太子妃]][[藤原嬉子|嬉子]]の死後、当時叔父[[藤原教通|教通]]に娘がいたにもかかわらず、道長の意向で禎子が敦良と[[結婚]]していることからも、道長一族のひとりとして大切にされていた様子がうかがえる。
長元2年
長元9年、夫の皇太子敦良が[[即位]]([[後朱雀天皇]])。同10年2月(1037年)、[[中宮]]に冊立されるが、3月[[藤原げん子|嫄子]]([[藤原頼通]]養女)の立后で[[皇后|皇后宮]]に転じる。このころから、禎子と[[摂家|摂関家]]の関係は悪化していった。頼通や[[藤原教通|教通]]らが次々と娘たちを入内させる一方で、皇后でありながら禎子はほとんど宮中入りすらままならなかった。そんな禎子を陰で支えたのは頼通・教通らの異母弟[[藤原能信|能信]]であった。『[[今鏡]]』の伝えるところによれば、[[中宮職|中宮大夫]]でもあった彼の働きで、禎子所生の尊仁親王は異母兄[[後冷泉天皇]]の[[皇太子|皇太弟]]になることができたという<ref>『今鏡』 第二巻 すべらぎの中 八段 司召し</ref>。
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