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'''穆提婆'''(ぼく ていば、? - [[577年]])は、[[北斉]]の[[後主 (北斉)|後主]]の近臣。本姓は駱。[[本貫]]は[[天水郡|漢陽郡]](現在の[[甘粛省]][[天水市]])。
 
== 経歴 ==
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[[572年]]以後、陸令萱母子は北斉の宮廷内外に権勢を振るい、売官や収賄を横行させた。[[斛律皇后]]が廃されると、太后の意向により[[胡皇后 (北斉後主)|胡昭儀]]が皇后に立てられた。しかし後主の意向は穆昭儀にあった。陸令萱は穆昭儀に皇后の御衣を着せて帳中に座らせ、「一聖女がおられます。お上もご覧なさいませ」と言って後主に引き合わせ、「この人を皇后にしなければ、何者を皇后とするのです」と述べた。このため穆氏が右皇后となり、胡氏が左皇后となった。また[[祖テイ|祖珽]]を宰相とし、胡長仁を殺したのも、陸令萱の力であった。
 
[[576年]]、晋州で北斉軍が敗れて、後主が[[ギョウ|鄴]]に帰還すると、穆提婆は[[北周]]に降った。陸令萱は自殺して、子孫はみな処刑され、家の財産は没収された。穆提婆は北周の[[武帝 (北周)|武帝]]の下で[[柱国]]・[[宜州]][[刺史]]となったが、宜州で起兵しようとしたと告発されて、子の穆廆(駱廆)らとともに処刑された。後主や北斉の諸王はこの事件に連座して、みな非命にたおれた。
 
== 伝記資料 ==