「永嘉の乱」の版間の差分

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もともと[[後漢]]初期から[[匈奴]]が中国内地に扶植し始めていたが、後漢が有名無実化して[[三国時代 (中国)|三国時代]]になると、その混乱に乗じて[[并州]](現在の[[山西省]]中部)や[[司州]]([[陝西省]]北部)に居住するようになった<ref name="中華の崩壊60">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P60</ref>。西晋の時代になると山西省に定住していた匈奴ら異民族は漢人に使役されて農耕生活に従事する者も少なくなかった<ref name="中華の崩壊60"/>。また[[チベット]]からも[[テイ (民族)|氐]]族や[[羌]]族が[[涼州]](現在の[[甘粛省]]方面)に居住するようになった<ref name="中華の崩壊60"/>。西晋内部ではこのような状況を憂い、重臣の[[郭欽 (西晋)|郭欽]]や[[江統 (西晋)|江統]]らが異民族を中国内地から徐々に追い出し、内地への出入りを厳しく制限するように提言したが<ref name="中華の崩壊60"/>、[[司馬炎|武帝]]や[[恵帝 (西晋)|恵帝]]はこれを採用しなかった<ref name="中華の崩壊61">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P61</ref>。
 
西晋では290年4月に武帝が崩御し、皇太子の司馬衷(恵帝)が第2代皇帝に即位した<ref name="中華の崩壊57">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P57</ref><ref name="民族大移動47">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P47</ref><ref name="河出中国93">山本『中国の歴史』、P93</ref>。しかし恵帝は暗愚で知られた人物で、武帝も一時は真剣に廃太子を検討したことがあった<ref name="新十八史略54">駒田『新十八史略4』、P54</ref>。その前評判どおり、即位した恵帝は政治を放り出し、実権は武帝の晩年から朝政を掌握していた[[楊シ|楊皇太后]]の父[[楊駿]]が輔政の形で壟断した<ref name="中華の崩壊57"/><ref name="民族大移動47"/><ref name="新十八史略55">駒田『新十八史略4』、P55</ref>。これが後に西晋の根幹を揺るがした[[八王の乱]]の始まりのきっかけである。楊駿は2人の弟を要職に就けて一族で専横した<ref name="民族大移動47"/>。しかし恵帝の皇后の[[賈南風|賈后]]([[賈充]]の娘)は楊氏の専横を憎み、禁軍の中にも楊氏一族に対する不満が高まった。賈后は291年に汝南王[[司馬亮]]と楚王[[司馬イ|司馬瑋]]と結託して楊駿を殺害した<ref name="新十八史略55"/>。しかし司馬亮は聡明で人望もあったため<ref name="新十八史略55"/>賈后は次第にこれを疎みだした。そこで司馬瑋を扇動して司馬亮を殺させ、その罪を全て司馬瑋に負わせて彼も殺害、こうして2人を除いて実権を掌握した<ref name="新十八史略56">駒田『新十八史略4』、P56</ref><ref name="中華の崩壊57"/><ref name="民族大移動47"/><ref name="河出中国93"/>。その後は賈后と甥の[[賈謐]]による10年弱の専横が続くが<ref name="中華の崩壊57"/><ref name="民族大移動47"/>、政治そのものは名士の[[張華]]や[[裴ギ|裴頠]]らが見たためかろうじて西晋は安定が保たれた<ref name="中華の崩壊58">川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P58</ref><ref name="民族大移動48">三崎『五胡十六国、中国史上の民族大移動』、P48</ref>。だが賈后は美少年を宮中に入れて淫行を繰り返し<ref name="新十八史略57">駒田『新十八史略4』、P57</ref>、299年12月、賈后は自らの実子ではない[[皇太子]][[司馬イツ|司馬遹]]を廃し、300年3月に殺害し、これにより西晋全土で賈后に対する専横に反発が生まれ、300年4月に趙王[[司馬倫]]は斉王[[司馬冏]]と語らって賈后とその一派を殺して首都[[洛陽]]を制圧し、301年1月に恵帝を廃して自ら即位した<ref name="新十八史略58">駒田『新十八史略4』、P58</ref><ref name="中華の崩壊58"/><ref name="民族大移動48"/>。司馬倫の簒奪は諸王の反発を招き、また司馬倫は皇帝の虚名に酔いしれて一味徒党の誰彼に見境なく官爵を濫発したため、朝廷は乱脈政治が展開され、301年司馬倫は斉王[[司馬冏]]、河間王[[司馬ギョウ|司馬顒]]、成都王[[司馬穎]]により殺害されて恵帝は復位したが<ref name="新十八史略58"/><ref name="河出中国93"/>、これ以後皇族同士による血を血で洗う争いが延々と続き、国内は荒廃していった<ref name="中華の崩壊58"/><ref name="民族大移動48"/>。
 
八王の乱自体は最終的に306年11月に東海王[[司馬越]]によって恵帝が毒殺され(病死説もあるが、毒殺の可能性も示唆されている)、12月にその異母弟である[[懐帝_(西晋)|懐帝]]司馬熾が第3代皇帝に擁立されることで終焉した<ref name="中華の崩壊58"/><ref name="民族大移動48"/><ref name="新十八史略59">駒田『新十八史略4』、P59</ref><ref name="河出中国93"/>。