「千葉孝胤」の版間の差分

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== 経緯 ==
文明3年(1471年)3月、孝胤らの[[古河公方]]足利成氏側は、[[堀越公方]][[足利政知]]を討つべく、[[伊豆国]]三島へ兵を進め、当初足利政知の元にはわずかな手勢しかなかったが、[[山内上杉]]の軍と合流したことで勢いを盛り返し、退却した孝胤らの軍勢は散々に叩かれ壊滅状態となった。さらに、4月には山内上杉家の家宰の[[長尾景信]]が[[下野国]]足利庄を攻略、6月24日に古河城が陥落した。このため足利成氏は行き場を失い孝胤の領内に留まることとなった。
 
なお文明4年([[1472年]])2月に古河城を奪還し足利成氏は[[古河市|古河]]に戻った。そしてその後、文明8年([[1476年]])には山内上杉家の家宰の家督を叔父の[[長尾景忠]]に継承させたことに怒り、[[上杉顕定]]に背いて[[武蔵国|武州]][[鉢形城]](現在の[[寄居町]]鉢形)に走った長尾景信の嫡男[[長尾景春]]が足利成氏側に付いたこともあり、抗争は次第に全面対決の様相を見せ始め、これに危惧した足利成氏と山内上杉家および[[扇谷上杉家]]の和議が進められた。しかし和議が整うと孝胤は千葉氏当主を自称できなくなり、山内上杉家に終生復讐を繰り返した長尾景春とともに、和議に反対し足利成氏からも離反した。