「南部信直」の版間の差分

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=== 最期 ===
肥前国より帰国後は、[[盛岡市|盛岡]]に居城を定め、築城や諸城の破却に着手するなど<ref name="戦国人名事典591">阿部猛西村圭子編『戦国人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年9月)P591</ref>、領内の基盤固めに専念した。九戸の乱後の仕置によって、南部は[[伊達政宗]]と領地を隣接することとなり、盛岡への本城の移転は狡猾な野心家である政宗の侵略に対抗する為の防備であったという<ref>七宮,250項</ref>。慶長3年([[1598年]])に秀吉が死去すると、[[徳川家康]]に接近する。同年、[[盛岡城]]の築城を開始するが、その完成を見ず、慶長4年(1599年)10月5日、福岡城(九戸城)で病死した<ref name="戦国人名事典591"/>。[[享年]]54<ref name="戦国人名事典591"/>。法名は「常往院殿前光禄大夫江山心公大居士」。墓所は青森県三戸郡南部町の三光院。信直と後室(泉山古康娘)夫妻の墓が現存する。
 
晩年は[[中風]]を煩っており、秀吉への拝謁や朝鮮出兵の従軍の為に西方へ行くのも苦労していた。死の直前、長女・千代(八戸直栄室)に向けて書かれた[[手紙]]では「大事ない、[[海藻]]が食べたくなったので、[[ワカメ]]や[[昆布]]を確保して欲しい」と言っていたが、その直後の死であった。後を長男の利直が継いだ。
 
== 参考文献 ==
* [[阿部猛]]西村圭子編『戦国人名事典 コンパクト版』(新人物往来社、1990年9月)ISBN 4-404-01752-9
* {{Cite book|和書|author=[[七宮ケイ三|七宮涬三]]|title=陸奥 南部一族|publisher=新人物往来社|year=1987|isbn=4-404-01468-6}}
* 瀬戸薫「前田利家と南部信直」(『市史かなざわ』5号、1999年)